なぜ、日の丸・君が代論争はかみ合わないのか?

web上で目撃する日の丸・君が代論争 多くは教育現場での日の丸・君が代強制を巡るものであるのだが、左側からは「強制するな」、右側からは「なぜ自分の国を愛せないのか」と何だがいつもかみ合わない。

ただ、ここを読んでその一因がわかった。

『松尾匡のページ』 「用語解説:右翼と左翼」
世界を縦に切って「ウチ」と「ソト」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「ウチ」に味方するのが右翼である。  それに対して、世界を横に切って「上」と「下」に分けて、その間に本質的な対抗関係を見て、「下」に味方するのが左翼である。(中略) ところがややこしくなるのは、まずもって、右翼も左翼も自分の切り分け方を当然の土俵のように思い込んで、相手との対抗軸を組み立てていることにある。お互い敵である相手が、自分と同じ切り分け方を共有して、自分と逆側に立つ者と考えるのである。  すなわち、左翼の考える敵=右翼は、世界を横に切って「上」と「下」に分けて、「上」に味方する者とみなされている。  それに対して、右翼の考える敵=左翼は、世界を縦に切って「ウチ」と「ソト」に分けて、「ソト」に味方する者とみなされている。

つまりは、左翼は日の丸・君が代を「上」からの強制の是非についての問題ととらえるのに、右翼は我々みんなのルールを守るかの問題ととらえているのだ。「上から押しつけるな」と「なぜ我々みんなのルールを守れないだ」との対立ではかみ合わない。

さらにややこしいのは、日の丸・君が代を「下」を支配するための道具・手段とする人々、例えば橋下大阪市長とか、例えば橋下大阪市長とか,みたいな引用文でいうところの「逆左翼」や、日の丸・君が代を否定することを強制する「逆右翼」もいることだろう。*1

*1:私は、君が代を歌う自由も、歌わない自由もひとしく尊重すべきだと考える。しかし、君が代を歌わせる自由や歌わせない自由は認めがたい。