怪物とたたかうものが、怪物になってしまっている。

大津のいじめ事件は、私も小学校時代にいじめられた経験があるから、胸をふたがれるような思いで報道を見ていた。

くわえて、加害者に対するバッシングがもはや、典型的ないじめのかたちになっているから、さらに重たい気持ちになってしまう。

加害者をたたいている人間は自分が正義であり、自分がおこなっているのは、正義にかなうことなのだ、と考えているであろう。いじめなどと言われるのは心外だと、言うであろう。

しかし、いじめっ子というものは、自分がしていることを悪いことだとは,考えていない。大変ゆがんだ考えだと思うが、正当な制裁、果ては相手に対する教育的指導とすら考えているものだ。いじめっ子から見れば、いじめられっ子は、集団の掟を破ったり、集団の足をひっぱる悪いやつであり、罰せられる正当な理由があるのである。別の言い方をすれば、自分の方が、いじめられっ子から、不快感を与えられたり、迷惑をかけられている被害者だと考えている。

今回の大津のいじめ事件にかぎらず、世間が「悪」、「たたいてかまわない対象」とみなしたものに対するバッシングの激しさを見れば、子どものいじめもそうした世間の風潮をうつしたものではないか、と考えてしまう。

私は、今回に限らず、いじめの加害者は、罰せられるべきと考える。しかし、それは、厳格なルールにのっとった手続きによって、ルールにあらかじめ定められた罰を与えるものでないとならない。
他人を罰することへのおそれが必要である。

怪物とたたかうものは、怪物になってはならないのである。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

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