少数派への迷惑は迷惑とみなされないし、多数派への配慮は、配慮とみなされない。

2012年12月16日の記事「「自民党憲法改正草案」part3 国民の権利及び義務」において紹介した「自民党憲法改正草案Q&A」の中に

「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、当然のことです。

という一節があった。政治家に限らず、立場の強い多数派の人々が、こうした言い方をよくする。「他人に迷惑を掛けるな」しかし、こうした人々に問いかけたいのは、あなた方は他人に迷惑を掛けずに生きているのか、ということだ。通勤の途中で誰かの進路を妨害しなかったか。部下に意味のない仕事を指示しなかったか。あるいは、部下を私用に使わなかったか。私事だが、最初の職場でのこと、上司の家の通夜を手伝わされたことが、あった。(私だけでなく部署の人間ほぽ全てだ)当時はナイーブだった私は、何だか釈然としない気持ちを抱えながらも、金ももらわず手伝った。その日は買いに行きたかった本があったのだが、大変な迷惑だったぜ。

以上の文を読まれて、違和感を感じられた方もいるだろう。それはおそらく、多数派*1の行動を迷惑と評価することは、なぜか少ないからだろう。公共の場での喫煙も、喫煙者が少数派になってから、迷惑だ、と言われ出したものだ。「迷惑をかけるな」というの言葉は、たいてい多数派から少数派へと発せられ、「不便を感じさせるな」「不快感を覚えさせるな」という意味を含んでいる。

また「配慮」というのも、不思議なことに少数派だけが、配慮されているということになっている。例えば、駅等の公共施設に障害者用エレベータを整備する目的に「障害者に配慮して」というのが、挙げられる。今までその建物には配慮というものがなかったみたいだが、それは違う。非障害者には配慮があった。異なるフロアに移動するために階段が設置されているが、これだって「階段は登ることができるが、梯子は登ることができない」非障害者に対する配慮だ。階段より梯子の方が、スペースを節約できそうだが、そうすると多くの人が、非障害者が今度は「障害者」に分類されることになるだろう。

新しく、かつ、特別に配慮することというのが、実は、今までで、自分を含めて多くの人に及んでいた配慮をさらに多くの人に及ぼす、ということに過ぎない、ということは少なくない。

*1:私はここで、多数派という言葉を、単に数が多いという意味ではなく、力を持っている側という意味で使っている。