権力があれば、能力はいらない。

現代のレイシズムとしての能力主義 - 非国民通信
の記事に触発された。

能力といっていいのか、あやしいものであるのに、高低が判定できるものとしてあつかわれているのが、「コミュニケーション能力」というやつがある。
コミュニケーションは、相互に行うものなのに、どちらかの能力が高い、あるいは低いなんてことが言えるのだろうか。手を打ち鳴らして、右手と左手どちらが、大きくなりましたか、と問うようなものだ。
人間それぞれ特性をもっており、違いが大きい特性をもった人同士は円滑にコミュニケーションをとれない。とれなかったら、互いに努力と工夫をすればいいのだけれど、当然ながらコストもかかる。だから、一方がなまじ権力をもっていたら、相手を「コミュニケーション能力が低い(ない)」と断じて、コストを負担することを拒否する例が目立つ。

さらには、権力をもっていたら、コミュニケーションに限らず、色々なところで周囲から支援を受けることができるということも大きい。
たとえば、社長がよくわからない言葉・口調で指示を出しても、部下は必死にその意図をくもうとするだろうし、社長に何か説明するときは、社長がわかりやすいよう説明するだろう。

「あいつはコミュニケーション能力がない」などといっている人間をみると、彼(彼女)と意思疎通ができないあなたのコミュニケーション能力はどうなのと問いたくなる。