自己の権利を声高に主張する必要のない人と、主張しなければならない人

前回の記事の続き。柴山議員のツィッターでは、自分の身を危険にさらした(その結果死んだ人)と権利を主張する人を対比しているのだけれど、このふたつは相容れないものではない。両立し得る要素だ。対比するなら、権利を主張する人と、しない人となるはずだ。
「身を呈して電車にひかれそうなお年寄りを助けようとした横浜の女性や、震災時に命にかえて最後まで避難放送を続けた南三陸の職員」が、権利を主張しない人だったかは、分からない。私は、権利を主張しない人と聞いたら、時間外手当を請求しない従業員、とか、売り掛け金を請求しない商人を想像するするのだが。

これは皮肉ではないのだが、柴山議員は、権利を声高に主張せずにすむ人生を送ってきたのではないだろうか。「少数派への迷惑は迷惑とみなされないし、多数派への配慮は、配慮とみなされない。」に書いたことだけれど、多数派というのは、配慮とはみなされない配慮を受け続けることができるから、権利を主張せずにすむことが多い。

ビルの2階にあるレストランに行く場合、多くの人間にとって、1階から、レストランの入り口まで利用可能な通行手段が、要求しないと確保されないということは想像できない。(縄はしごを使っていましたが、お客さんの要求で階段を設置しました、なんて例があるだろうか)しかし、例えば車椅子使用者にとってはそうではない。
当たり前のことを、享受するために「声高に」権利を主張しなければならない人々はいるのだ。

柴山議員が嫌う「権利を声高に主張する人たち」が、圧制や抑圧や差別を減らしてきたわけで、彼ら、彼女らがいなければ、今の世の中はもっと住み心地がよくなかっただろう。