「自分では変えられないもの」によるものだけに差別を限定するのはまずい

「自分では変えられないもの」によって不利益な取り扱いは、差別だ、許せない、という論の立て方はよく見る。婚外子の相続分の民法規定においても、婚外子であるかないかは本人が選択できないことであるのだから、不利益な取り扱いするのはおかしい、という意見があった。
この意見に異を唱えるわけではないが、「自分では変えられないもの」が原因であるか、に差別の判定基準をおくのは、まずいのではないか。

それは、「自分では変えられるもの」(あるいは、そうみなされているもの)によるものなら、全く差別ではないのかということだ。
例えば、同性愛者だから、キリスト教徒だから、あるいはアニメオタクだから、といった理由なら、どんな不利益な取り扱いしてもいいし、またそれを甘受しなければならない、なんてことはないだろう。

問題とすべきなのは、ある属性の人間になぜ、不利益な取り扱いをしなければならない合理的な理由はあるのか、ということだ。
「(その属性を)選択したのはお前だ。だから、どんな扱いをされても文句言うな」などという人が結構いるのだ。