犠牲を払えばいいってものじゃない。

高校の教諭が自分の子どもの入学式に出席するために、担任を務める1年生の入学式を欠席したことがニュースになっていた。

件の卒業式に来賓に来ていた県会議員が、騒いでいる。


http://blog.eno-ko.com/?eid=86
来賓として入学式に出席した江野幸一県議(刷新の会)は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨。
そりゃ、公営ギャンブルにいきたいんで、入学式を欠席します、という理由を聞いたら、生徒は教師を軽侮するだろうけど、自分の子どもの入学式に出席するという理由で、マイナスの感情を抱くだろうか。
この高校の入学式が、「仕事のために欠席」という保護者だらけだっだら、この県議は、「仕事のために私事を犠牲するとは大いに結構」と言ったのだろうか。逆に「子どもへの愛情が足りない」「家庭の絆を大事にせよ」と言いそうだな。

この教師の教師が欠席したため、議員先生が色をなさなければならないほど、ダメな入学式になった、という報道はなかったので、入学式の進行に被害を与えたことを怒っているわけではないようである。
むしろ、この議員が問題にしているのは、入学式を欠席したことより、仕事に対して「犠牲」を払わなかったという「態度」だろう。自分の子どもより、教え子を優先したというのは、大きな犠牲を払ったとみなされる。


もちろん、仕事は犠牲を払って、苦労してやろうが、プライベートを充実させて楽にしようが、成果が同じなら、同じように評価されるべきだが、投入された時間や労力で仕事を評価する風潮は強い。

特攻隊を評価するのに、挙げた戦果より、日本側の犠牲、特攻隊員の心情を重んじた議論が目立つことと通底するのかもしれない。