『帝国憲法の真実』その2

前回にひきつづき、『帝国憲法の真実』について。前回の記事に当たって、つっこみどころに付箋をつけながら読んでいったら、付箋だらけになってしまったので、問題のないページに付箋をはることにした。

倉山氏は、帝国憲法を愛し、日本国憲法を憎む。
その理由だが、倉山氏の論は迷路のように入り組んでいて分かりにくいのだが、どうやら、日本国憲法が、GHQに押し付けられた、日本の歴史や文化や伝統に則っていない憲法だから、という理由だけのようだ。

それを言えば、帝国憲法も軍事クーデタで成立した明治新政府が押し付けたものだし、倉山氏が日本の国体とみなす天皇をいただく国民国家も、人為的につくられたものだ。

また、諸権利に法律の留保がある帝国憲法は、人権保障の面で、日本国憲法に劣っていることは明らかだ。倉山氏も帝国憲法が、日本国憲法より、てあつく人権を保障していたなどとは、言わない。
かわりに日本国憲法のもとでも、レッドパージなどの人権侵害があったではないか、という。これは、Aの罪を、Bの罪を指摘して帳消しにする、相殺法という詭弁だ。少なくとも日本国憲法のもとでは思想・宗教弾圧は憲法違反になるが、帝国憲法のもとでは憲法に違反せずに思想や宗教を弾圧できる。
実際に帝国憲法のもとで数々の思想・宗教弾圧事件があったのだが、倉山氏はそれを無視して、次のように、帝国憲法を擁護する。

帝国憲法は、臣民の権利に対して神経質です。第二章を丁寧に読めば、細かな配慮が読み取れます。一口に「法律の留保」と言いますが、条文の表現は細やかに違います。ただし、権力により不当な権利侵害をされないように、との趣旨は一貫しています。
そして、信教の自由を定めた帝国憲法第二十八条に法律の留保はありません。「安寧秩序ヲ妨ケス臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」です。
 伊藤の『憲法義解』は、「内部に於ける信教の自由は完全にして一の制限を受けず。而して外部に於ける礼拝・布教の自由は法律規則に対し必要なる制限を受けざるべからず」と記しています。要するに、現在の民法でいうところの「公序良俗に反しない限り」と同じ意味なのです。(pp.189-190)

思想や信教の自由というものは、それを外部に表明する自由もセットでないと、まさしく画餅だ。「内部に於ける信教の自由」だったら、全体主義国家の強制収容所や、秘密警察の拷問部屋でもあった。
そんなものを保障していたからといって何の自慢になるだろうか。

「法律の留保」についても、人権を抑制するためには、法律が必要であり、議会のチェックがはたらいた、という見方も可能だが、帝国憲法下の議会が、国民を代表していたか、疑問だ。また、議会による、あるいは議会で多数を占めることのできる集団による、少数派の圧制を防ぐことができない。その意味でも、帝国憲法は現行の日本国憲法より劣っていた、としか言えない。