「植民地で行なわれることはすべて強制である」なんて書いていないぞ〜池田信夫氏のわら人形論法記事

 経済学者の池田信夫氏は、従軍慰安婦問題に関心があるらしい。

「広い意味の強制」って何? – アゴラ

従軍慰安婦問題における「広い意味での強制」にかみついている。池田氏によるとこのことばを発明したのは、吉見義明氏の発明ということらしい。この当否については、改めて調べてみたい。池田氏は、ことばが後世発明されたと言って、「広い意味での強制」が当時存在していなかったと匂わせたいのだろうか。しかし、歴史上の事件やことがらをあらわすことばが、後世に発明されたものであっても、それらの事件やことがらが、なかったことにはならない。例えば、「シルクロード」という言葉は、19世紀に生まれた言葉だが、だからといって、ユーラシア大陸の交易路がなかったことにはならない。

 池田氏は吉見義明の議論を同語反復に過ぎないと批判する。ちなみに池田氏は書いていないが、「たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果」という文を吉見氏が書いたのは、『従軍慰安婦』(岩波新書)の103ページである。

このことばを発明した吉見義明さんによると、植民地では「たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果」なのだそうです。つまり

 A.植民地で行なわれることはすべて強制である
 B.朝鮮人慰安婦の募集はすべて植民地で行なわれた
 C.朝鮮人慰安婦はすべて強制である
(中略)
植民地で行なわれることはすべて強制に含まれ、朝鮮人慰安婦は植民地に含まれているので、朝鮮人慰安婦はすべて強制なのです。これはひとりひとりの慰安婦に調査する必要もありません。よい子のみなさんでも、この図を見ればわかりますね。こんな簡単なことになぜ大騒ぎしていたのでしょうか?

ここで大事なことは、Aに含まれています。吉見さんのように「自由意思で選んでも強制」と定義すれば、Aは必ず成り立ちます。Cはそれをくり返しているだけです。こういう理屈を同語反復といいます。これは100%正しいのですが、意味がありません。朝日新聞や吉見さんが「慰安婦は強制と定義したから強制だ」といっているだけです。

 『従軍慰安婦』では池田氏の言うところのAもBも書いていない。したがってCを主張していない。池田氏は、吉見氏が書いてもいないことを根拠に吉見氏を論難しているわけで、わら人形論法というしかない。Bなど『従軍慰安婦』p91(以下、『従軍慰安婦』からの引用は書名を省略する。)に下関に住んでいた朝鮮人女性が、だまされて海南島の軍慰安所に送られた、という話が出てくる。下関は植民地じゃないだろう。
 だいたい、『従軍慰安婦』にはフィリピンやインドネシアで軍が関与した暴力的な連行の事例(まさしく「狭義の強制」!)が紹介されているのだが、これについては池田氏はふれない。

 最初に戻って、吉見氏が「たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果」をどんな文脈で書いたか、見ておく。
 この一文は、「III 女性たちはどのように徴集されたか」の章の「2 朝鮮からの場合」に載っている。詐欺、人身売買や暴力による徴集の事例等を述べた後の「自由意思による応募者はいたか」という節にある。

 年季があけ、前借金を完済した娼妓が慰安婦になるケースが多くなかったと思われる。また、仮にあったとしても、貸座敷という事実上の性的奴隷制度のもとで、そのような生き方しかできなくされたという点を重視しなければならない。その女性の前に労働者、専門職、自営業など自由な職業選択の道が開かれているとすれば、慰安婦となる道を選ぶ女性がいるはずはないからである。たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ。(p103)
 吉見氏は、「慰安婦は強制と定義したから強制だ」と言っているわけではない。池田氏は、詐欺、人身売買や暴力による徴集が行われていても問題はないと考えるのだろうか。また、慰安婦が経済的強制によらず、自由意思でその道を選択したというのなら、生活に困っていない女性が、慰安婦になった事例を集めたらいいのに。例えば、日本人で職業軍人の娘が慰安婦になった事例が、多くある、というなら、説得力があるだろう。