安心のための差別はゆるされるか

今回の記事は以前書いた
さすがにウソはまずいでしょう - davsの日記
と同じテーマの記事で、直接には下のふたつの記事を読んで考えたことである。

  1. 子供を性犯罪から守るということについて。幼稚園児の輪に入っていく高校生の話。 - 日なたと木陰
  2. 犯罪を行う意思の有無は判断できないので、犯罪を遂行する能力の有無で判断する - ←ズイショ→

2は1を受けて書かれた記事だが、「犯罪を行う意思の有無」ではなく、「犯罪を遂行する能力」があるから警戒するというやり方は現実では不可能である。
ジャレド・ダイアモンド『昨日までの世界』で書いたような、よく知った人間に囲まれて生活し、見知らぬ人間と会ったら、殺すか逃げるか、という伝統社会ならともかく、現在の日本は他人を信頼することを前提に構築されている。
「犯罪を遂行する能力」を論じれば、銀行員はあなたの預金を横領する能力があるし、医者はインフルエンザワクチンのかわりに筋弛緩剤を注射する能力がある。

それでは自分以外の全員を警戒するのか、というと、2の記事もさすがにそこまでは主張していない。

そういう人間が、自分の目の届かないところで自分の息子や娘と仲良く遊んでいるということについて、メリットとリスクを考えた時に、どういう判断を下すかっていうのは人それぞれであってどういう判断をしてもそれは咎められないしその判断がどういう結果になろうとも誰も何も言えねぇ、っていうそれだけの話だと思います。

 二人称の書き方をすれば、あなたに犯罪を行う意思があるから警戒するのではなく、あなたを警戒するのは、私にとってメリットがあるからです、ということになる。

 ただし、メリットはあくまで、警戒する側であって、警戒される側にはデメリットしかない。宅配便の例だと、平日に配達できる荷物を、土日に配達しなければならないとなると、それなりのコストがかかるだろう。運送業者にとってそれは顧客サービスの一環で、料金もそれを含んだものなのかもしれない。

 しかし、これが「◯◯人は犯罪を起こす能力はあるし、警戒してもメリットだけがあってデメリットはないから警戒する」(◯◯人のところはオタクでも、知的障害者でも同じこと)となったらどうだろう。犯罪を行う意思もないのにも、警戒されたり、公共の場から排除されたりしたら、それは差別だというべきだろう。

色んなものを怖いと思って色々考えてる人に第三者が「そんなこと言ってたら何も出来ないよ、相手を信じろよ、俺も信じろよ」って言うのは絶対おかしいだろと思うわけです。

 同じく2の記事からだが、根拠もない恐怖心が他人の人権を侵害したり、社会的なリソースを空費させるのなら、やはり「それはおかしい」と言うべきだ。

 さらには犯罪への警戒が、主観的な安心にはつながっても、安全に貢献するかは疑問だ。
 下のグラフは、厚生労働省の人口動態調査の「年次別にみた死因簡単分類・性別死亡数及び率」から「他殺」、「結核」そして「不慮の事故」を原因とする死亡数を示したものだ。(2004年から2013年)「不慮の事故」には、天災による死亡数も含まれており、2011年の「不慮の事故」グラフには東日本大震災の被害の大きさがあらわれている。
 おおざっぱに言って、「不慮の事故」は数万、「他殺」は数百というところで、「他殺」は普段、多くの人が意識もしないであろう「結核」よりも死因として少ない。「不慮の事故」による死を5%減らすことは、「他殺」を皆無にするより、多くの人間の生命を救うことになる。どちらにより多くの社会的なリソースを注ぐか、と言われれば、私は「不慮の事故」への対策を選ぶ。