経済的強制はないらしい。

年末に以下の2冊を読んだ。

二冊ともに、新自由主義的な世界観が出ていた。

前者は、発展途上国の労働条件の劣悪な搾取工場への反対運動について述べられている。筆者は、搾取工場への反対に反対する立場なのだが、そのロジックは次のようなものだ。
搾取工場で働く労働者は、その国の他の労働より、マシだから、搾取工場での労働を選んだ。だから搾取工場の廃絶は、労働者当事者の利益にならない。

一方、後者にはこんな一節がある。低所得の高齢者向けに簡素な(あるいは劣悪な)住居を集めた地区を作ったらどうなるか、という議論だ。筆者は「端的に言えば、アメリカ国内にメキシコやブラジルのような場所をつくり出すのだ」と書いている。

こうしたシナリオを読むと、背筋が寒くなる人が多いだろう。お年寄りをスラム地区に押し込めるなんて、あまりにひどい、というわけだ。反発を感じるのは理解できる。しかし、高齢者は、そういう地区に住むことを強制されるわけではない。なかには、それを望む人もいるだろう。私自身、所得が少なければそのような選択をするかもしれない。ものごとを整理して考えるべきだ。貧困を生む原因に怒りをいだくのは当然だが、人々が貧困に対処するために取る方法を否定するのはおかしい。

 別に貧困に反対する人々で、搾取工場の労働者が、さらに悪い条件のもとで働くことを望んだり、人々が貧困に対処することを否定する者はいないだろう。
 搾取工場での労働について書くと、そのもののひどさによって問題視されているわけで、他にもっとひどいことがある、という理由で正当化できないだろう。さらにいうと、AよりマシなBがあって、さらにマシなCがあってはいけない理由はあるのだろうか。
 
 さらに新自由主義的な世界では、政治による強制はあっても、経済的強制というものは存在しないらしい。引用した部分にあるような、お金がないばかりに、劣悪な環境にしか住むところがないなら、それは強制されている、と私などは思うのだが。それは違うらしい。
 
 新自由主義の本を読むと、たいてい個人の選択の自由のすばらしさをうたっているのだが、その自由を保障する資源の再分配については、ひどく冷淡な印象を受けるのだが、年末年始に読んだこの2冊も、その例であった。