『永遠の0』のごまかし

百田尚樹氏の『永遠の0』について4回にわたって主に考証面について記事にした。『永遠の0』に資料のひきうつし、とか、パクリとか批判があるのだが、むしろそれらの批判に値する段階まで至っていないのだ。

今まで書いてきたこと以外にも、文庫版189ページに書いてあるガダルカナル島上陸作戦に参加したアメリカ海軍の空母の名前が間違えているとか、(ワスプちゃんを忘れちゃイヤん。)とか、文庫版413ページの対独戦におけるB17搭乗員の8万人近い戦死者数を一桁少ないオーダーで書いてあるとか(まあ、確かに5000人は超えていますが)、いろいろあるのだが、今回はこの作品にひそむ、ごまかしについて書いて、このシリーズをいったん終わる。

百田氏によれば、『永遠の0』は戦争を肯定する小説ではない、ということらしい。

 なるほど、『永遠の0』には旧日本軍に対する批判が随所にちりばめられる。しかし、旧日本軍への批判というものは、司令官が臆病だったため、勝機を逃したというものが大半だ。真珠湾で第二撃をしていたら、とか第1次ソロモン開戦で米輸送船団を攻撃していたら、といったものだ。後は、兵士の命を消耗品のようにあつかったというもので、誰が戦争を始めたかということや、戦争に巻き込まれた内外の民間人のことは言及されない。百田氏は戦争に参加した旧軍人の嘆きに同調して小説を書いているのだろう。それが高じてか、登場人物にこんなことを言わせる。

職業軍人とは何とひどい言葉でしょう。日本のために命懸けで戦ってきた人を、まるで銭儲けで戦ったように言うのは、絶対に許せません」(文庫版p357)

 この台詞、終戦直後に大の大人が言う台詞なのだ。「職業軍人」という言葉は、戦前からあったのだが。徴兵された人間に対して、志願して軍人になった者を指すもので、試しに読売新聞のデータベースで検索すると、1921年の2月20日の朝刊が最も古い使用例としてヒットする。当時の読売新聞に「軍人を馬鹿にするな」と抗議が殺到したのだろうか。百田氏は、戦後、旧軍人が冷遇されたと憤るあまり、「職業軍人」と言う言葉が、戦後、軍人をののしるために発明されたものと誤解したのだろうか。

追悼では駄目なんですか?

 また、百田氏は特攻隊員を賛美することは駄目なのか、と言うのだが、逆に問えば特攻による戦死者を賛美でなく、追悼することでは駄目なのだろうか。
 特攻による戦死者を追悼するのは、別段におかしなことではない。ただし、それは、死因によらず、死者はひとしく追悼の対象になる、という意味でだ。戦争で死んでも、食中毒で死んでも、自殺で死んでも、追悼の対象としては同じだ。
 特攻による戦死者を追悼しても、賛美してはいけないのは、それが特攻作戦の賛美につながるからだ。
 小説もこのツィートも、理不尽な命令に従って従容と死ぬことを賛美しているとしか読めない。それを特攻作戦を否定しているとごまかすから、小説にあらわれる特攻への考えが支離滅裂になる。特攻作戦を否定的に描こうとすれば、特攻隊員のことは軍の理不尽さの犠牲者としか描写するしかないだろう。「彼らをバカとののしれ」とは言わないが、キール軍港の水兵のように反乱を起こしてもよかったのではと思う。

特攻隊員=テロリスト論争について

 『永遠の0』作中で新聞記者と旧軍人が特攻隊員=テロリストか、という問題で論争する。まるでかみ合わない議論だ。新聞記者は、自分の信念のために命を捨てて敵を攻撃する点でテロリストと共通する、と述べているのだから、特攻隊員たちは死にたくなかったが強制されて作戦に参加した、と反論すればよいものを、特攻隊は一般市民を標的にしていないからテロリストとは違うと旧軍人は言う。それならば、軍人を狙ったテロならどうなのか、とか、特攻作戦が一般市民を標的にするととがなかったのは、単に戦況の都合だろう、という反論があるだろう。
例えば、太平洋戦争中、日本が原爆とそれを搭載可能な爆撃機を開発していたとしたとする。しかし、アメリカ合衆国の都市には片道飛行でないと到達できない。その時に、民間人に犠牲が出るからと片道爆撃行が却下されたのだろうか。重慶爆撃などの前科を考えたら、とてもそうは思えない。

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