「家族や恋人など大切な人を守る」目的に合っていたか考えさせるべきだと思う。

特攻作戦を、隊員が大切な人を守るためという動機で参加したことだから、と正当化するテンプレート的主張がある。例えば、下の産経新聞に登場するガイドの説明などだ。
【日教組教研集会】「特攻隊」題材に平和授業…「涙をこらえていた」と朗読の教諭 日教組“タブー視”解除?(1/2ページ) - 産経ニュース

教諭は5年生に、同県宇佐市の航空隊基地跡地の見学遠足を実施。子供たちはガイドの説明で、出撃前夜に酒を飲み「見事敵艦に突っ込んでみせる」と威勢のよかった隊員たちが、夜中になると故郷の家族を思い泣いていたことや、翌朝には一転、凛(りん)とした表情で飛び立っていったことを知った。
 「なぜ命を捨ててまで戦ったのか」。子供たちはそんな思いを深めたといい、ガイドから「命を軽く考えていた特攻隊員は一人もいない」「『お国のために』とよく言うが、ほとんどの若者は家族や恋人など大切な人を守るために戦った」「大切な人を守ることが、お国のためだった」などの説明を受けた。
 子供たちの感想文には「日本のために戦ってくれたみなさんにありがとうと言いたい」「平和な時代に生まれてよかった」といった感謝がつづられた。

特攻隊員が「(国のためでなく)隊員個人の大切な人を守るため」に特攻作戦に参加した、という主張は、『永遠の0』などにも色濃く出ている。また最後は、「大切な人を守るため」と言いつつ、「国のため」という目的と入りまじってしまうというのもよくある結末である。しかし、動機だけで、行為やその結果の是非を判断できるのだろうか。

「大切な人を守る」という動機であれば、例えば、ナチスドイツの特別行動隊(アインザッツグルッペン)の隊員の中に「邪悪なユダヤ人から大切な人を守る」と考えて虐殺にあたっていた人間がいたら、彼らの行動を肯定できるのだろうか。
第二に「大切な人を守る」という目的に、特攻作戦が合致していた手段だったのか、ということを考えなければならない。特攻作戦が始まった1944年には、「家族や恋人など大切な人」を守るためには戦争をやめるしかなかったのだから、特攻作戦が「大切な人を守る」として正しい方法ではなかった。ミクロの視点からでも、必死の作戦で命を落とせば、後に残される「大切な人」が路頭に迷ったりするなり、大きな打撃を受けるだろう。戦争継続を呼号する人間を排除する方が、「大切な人を守る」という目的には、合致していたと言える。

特攻隊を学校教育で扱うなとは言わないが、特攻作戦が「大切な人を守る」ための正しい方法だったのか、とか、今の日本に何をもたらしたのか、考えさせなければ、理不尽な死を称揚するだけになってしまうだろう。