冷たいだけでなく、頭が悪い文だと思う〜曽野綾子氏のエッセイ

2015年に岩手県で中学生がいじめを苦にしたと思われる自殺をしたことを受けて曽野綾子氏が、「週刊ポスト」9月18日号にいじめについてのエッセイを載せているが、ひどいとしかいいようのないものだ。アパルトヘイト問題の時もそうであったが、曽野綾子氏のエッセイは、なにやら言いわけわめいたことを書き連ねるのだが、最後のあたりで馬脚というか、本音をあらわしてしてしまう。今回のエッセイでは最後にこんなことを書いていた。以下、引用文文は今回の「週刊ポスト」の曽野綾子氏のエッセイからである。

自殺した被害者は、同級生たちに暗い記憶を残したという点で、彼自身がいじめる側に立ってしまったのである。

 いや、いじめる側に立っているのは、どう考えても、曽野さんなんですが。曽野綾子氏は、「遊びのつもりだったのに死んでしまいやがった。おれが加害者になってしまったのは、あいつが弱かったせいだ」というねじまがった被害感情に寄り添うらしい。

 曽野綾子氏はエッセイのなかで、いじめは人類が始まった時からあり、これからもあるもので、なくすことはできないと述べている。

いじめをなくそうとなどということは、できることではない。個人的に人をいじめないことは今日からでも可能だ。しかし社会的にこれを防ぐ方法などない。

 曽野氏は、教育再生実行会議のスタート時の委員だったけれども、いじめは制度でなくせるものではないと思っていたので、委員を辞任したとも書いている。
 私には曽野綾子氏の言いたいことががなかなか読み取れないのだが、みな個人的にはいじめたくはないが、自分ひとりがいじめをやめると、今度は、いじめしたい周囲の人間に自分がいじめのターゲットにされると予想して、それを防ぐためにいじめをやめられないのだ、ということを言いたいのかもしれない。(この各自の予想が、ひとりだちしてしまい、各自がその予想に束縛されてしまう。また、各自が自分にとって一番よくなるように自由に選択した状態よりもさらにましな状態がありうることを、経済学者の松尾匡氏が様々なところに書いている)
 だったら、個人的な道徳よりも制度が、いじめをなくすために重要だ、ということになるはずだが、曽野綾子氏には、いじめを社会的に解決するという考えは薄そうである。かわりにいじめられる側に「強さ」を求める。

(前略)私はこれくらいのことは、昔からいくらでもあったと思うし、私の身近にいる人たちに聞いても、たいていの子供が体験し、時には泣いたりもしたが、それに抵抗して生きてきたものばかりだ。
 食事中に教科書を投げつけられれば、汁がこぼれて教科書が汚れるだろう。しかしたかが教科書だ。机に頭を押さえつけられるのは屈辱だが、その場合は手を振り回して、できれば相手の顔をひっかいてやればいい。(後略)

 私はいじめられっ子が、精いっぱい抵抗することを否定はしない。私だって小学生の時に、かばん持ちを強要されたとき、いじめっ子のかばんをドブ川に放り込んだことがある。だが、そうしたことをする「強さ」がないからといって非難されるいわれはないと考える。
 また曽野綾子氏が自分がエッセイに書いたことに忠実なら、この記事に取り上げた、たいじめを刑事告訴した防衛大学生のことを称賛するであろう。だいたい、曽野綾子氏の理路に従えば、自殺した被害者は、いじめの加害者に精神的打撃を与えたのだ、素晴らしい、となりそうなものだが、彼女はそんなことは書かない。もしかしたら、曽野綾子氏の求める「強さ」は、分をわきまえて耐える「強さ」なのかもしれないが。

 曽野綾子氏のエッセイは、自殺した被害者をむち打つ冷たさに満ちているだけでなく、論理を追うことが出来ない、頭の悪い文だと言うしかない。