出生前診断で分かる障害なんて一部だ。〜長谷川智恵子氏の発言をめぐって

http://www.asahi.com/articles/ASHCL5QG1HCLUJHB00N.html
茨城県の教育委員長谷川智恵子氏の発言。

県教育委員が障害児らが通う特別支援学校を視察した経験を話すなかで、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」と発言した。

長谷川氏は出生前診断の是非などについて「命の大切さと社会の中のバランス。一概に言えない。世話する家族が大変なので、障害のある子どもの出産を防げるものなら防いだ方がいい」などと話した。
 後に撤回したとは言え、障害者は社会の負担になるから、生まれるべきでないという長谷川氏の発言は、脳性マヒの私にとって、脅威を感じるものだ。
 世の中に必要な人間と不必要な人間がいて、それを選別すべきだ、という考えはひたすらにおぞましい。 
 ところが、長谷川氏は、批判を受けたためか、下のコメントを出して、発言を撤回する。(後に教育委員を辞任)「言葉足らずの部分がありました」というのなら、言葉を尽くして真意を説明すればよいのだが、元の発言とほとんどかみ合わないコメントである。批判が正しく、自分の発言が間違っていたことを納得したのであれば、そうコメントするべきであるし、逆に、正しいことを言ったと考えているのであれば、堂々と反論すればよいはずだ。このコメントは、相手が怒っているから、とにかく謝っておけ、という不誠実な匂いがする。
http://www.asahi.com/articles/ASHCM5WJXHCMUJHB00Y.html

この度の私の総合教育会議での発言により、障害のある方やご家族を含め、数多くの方々に多大なる苦痛を与えましたことに、心からお詫(わ)びを申し上げますとともに発言を撤回させていただきます。

言葉足らずの部分がありましたが、決して障害のある方を差別する気持ちで述べたものではありません。反対に、生徒さん達の作品を拝見し、多様な才能をお持ちでいることも理解しており、美術の世界で、もっとお手伝いができるのではないかと思いました。また、生まれてきた子どもたちの命は全て大切なものであると考えております。

今後は、教育委員として今まで以上に研鑽(けんさん)を積み、よりよい茨城の教育の推進のために微力ながら力を尽くしてまいりたいと考えております。

 ところが彼女の発言を、擁護する人もいる。
 その要旨はたいてい、障害児を育てる家族が苦しんでいるから(あるいは当人が生まれたことを後悔している)というものだ。




これほど他人の労苦をおもんぱかれるのなら、障害児を養育する人への支援を手厚くしようとか、社会のデザインを変えて、障害者への障害をなくそうという考えるのが自然だが、そうではなくて、障害児を排除するのが負担に苦しむ人への支援であるという発想になるのが不思議だ。障害児を養育する人への配慮の方向がずれている。障害児を育てる負担を減らして欲しいという考えよりも、障害を持つ子どもを持ちたくない、という望みに共感しているのだろうか。

清水晶良@ミレイユさんのミサイルポッド氏は、「「障害者を産んでも親に過度な負担がかからないようにしたい」というのは理想論だが実現の努力はしたい。」と障害児を養育する人間を支援することは、理想論であるとして、出生前診断による障害児の排除が現実的方策であるとする。そして「障害者を育てる負担に耐えられない親が産まない選択を出来る」ようにもしたいだけ」と、出生前診断による障害児の排除が行なわれていないため、障害児の養育による重い負担に苦しむ人がいるかのように書いているが、出生前診断による障害児の排除は行なわれている。長谷川氏の発言はこれを行政として推奨するということだから、擁護としても筋がずれている。


 子どもの障害を理由にした妊娠中絶が許されるか、という問題を棚上げして、出生前診断で障害の原因になる遺伝子を持つ胎児を全て中絶したとする。しかし、障害児を育てる負担に苦しむ人は、ほとんど減ることはない。出生前診断で胎児の染色体を調べても、21トリソミー、18トリソミー、13トリソミーなどは分かるだろう。しかし、その子どもが例えば脳性マヒになるかは、分からないし、ましてや、出生後に事故で障害を負う運命にあるかどうかなど分からない。障害児を育てる労苦から人を助けるために出生前診断をという人は、出生前診断では分からない障害はのことを無視している。結局、長谷川氏の発言を擁護する人々がもつ、障害児を育てる負担に苦しむ人を助けたいという希望をかなえるためには、障害児を育てる負担を社会全体で分かち合うしかない。