櫻井よしこ氏はティンパリーの著作を読んだのだろうか。

櫻井よしこ氏が「週刊新潮」2015年の12月10日号にコラム「日本ルネッサンス」に南京事件について言及している。

  ユネスコの世界記憶遺産に登録されてしまった「南京大虐殺」についての中国側の主張の骨格は、H・J・ティンパーリーの著作に基づいている。彼は英「マンチェスター・ガーディアン」紙の記者の触れ込みで活動していたが、国民党国際宣伝処の雇われ外国人であったことは周知である。
 国民党に買収されて日本軍の「蛮行」を喧伝したそのティンパーリーでさえ、南京で「大虐殺」があったとは書いていない。彼と交友のあった金陵大学歴史学教授のベイツもまた、ティンパーリーへの手紙の中で、日本軍が南京で行ったことは「テロ」即ち組織的暴力だったという確証はないと書いている。

南京大虐殺」がユネスコの世界記憶遺産に登録されたと、櫻井氏は書いている。こうした書き方をする人が多いが、正確には南京事件についての記録が、登録されたと言うべきである。櫻井氏の言うところの「H・J・ティンパーリーの著作」というのは『戦争とは何か』ということになるが、これは日中戦争初期の日本軍の暴虐についての外国人の目撃記録や、報道をまとめたものだ。南京事件については、フィッチ、ベイツやスマイスら、当時南京にいた人々からの情報をまとめたもので、「「南京大虐殺」についての中国側の主張の骨格は、H・J・ティンパーリーの著作に基づいている」というのは、意味不明な主張だ。ティンパリーが本を書かなくても、もとになった目撃記録はあるわけで、南京事件は同じように世界に知られ、同じように日本軍は批判されただろう。

「国民党国際宣伝処の雇われ外国人であったことは周知である。」と書いているが、ティンパリーは『戦争とは何か』を書き上げた翌年に、記者を辞めて国民党国際宣伝処の顧問になったことは周知のことだと思う。櫻井よしこ氏は、事実を知っていて、ティンパリーが国民党の意を受けて、本を書いたとにおわせているのだろうか。

さらに「金陵大学歴史学教授のベイツもまた、ティンパーリーへの手紙の中で、日本軍が南京で行ったことは「テロ」即ち組織的暴力だったという確証はないと書いている。」に当てはまる記述は、『戦争とは何か』の出版をめぐって、ティンパリーとベイツの間に交わされた書簡のうち、1938年3月14日のベイツからティンパリーへの手紙にある。

テロという確証はないが、一部には当てはまるかもしれない。また、日本軍には中国人への憎しみ、軽蔑があった。これはトップの意向を受け継いだ懲罰概念の受け売りであったり、狙撃兵とか潜伏兵とかいって意図的に恐怖心を煽ったためである。(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』p362)

 ベイツは、この手紙で、ティンパリーの『戦争とは何か』の結論部分について意見を述べている。ティンパリーは、日本軍が中国で行った暴虐が、軍隊の無軌道の結果なのか、当局の計画的恐怖政治の政策を表していたものか、という議論を記述している。ベイツの意見はこれに対応するものだろう。ティンパリーとベイツは、南京で多くの人間が虐殺され、女性が暴行されたことを前提に語っているわけで、櫻井よしこ氏が読者に印象づけたいような、南京事件が大した事件でなかったかのようなことは言っていない。
 大体、ティンパリーが国民党のエージェントだったから、その著作が正しくないように示唆しつつ、彼の著作の中の記述を南京事件の否認に使うのは矛盾であろう。