慰安婦が性奴隷かどうかは内心の問題ではない。

自らの歴史修正主義的な意見を、他人からの批判から守るために思想信条や内心の自由を持ち出す人がいる。



 慰安婦が性奴隷か否かは、歴史学的に事実かどうか、決着がつく問題であって、「人それぞれの見解による」変わるものではない。ジャイアントパンダよりコアラの方が可愛い、と考えるのは、個々人の内心の問題だが、コアラが有袋類であることは、個々人の内心によって変わるものではないのと同様だ。慰安婦が性奴隷でない、という主張は、内心の問題だから、批判するな、というのであれば、「慰安婦は性奴隷である」という主張も内心の問題だから批判してはならないということになって、山本⑧平氏の言っていることとはなはだしく矛盾する。

 山本⑧平氏が、従軍慰安婦は奴隷ではない、と主張するなら、おそらく、以下のふたつの方法があるだろう。

  1. 人身売買され強制労働させられている人間は、奴隷ではない、と奴隷の定義を変えてしまう。(もちろん、その定義は、他の奴隷制にも整合的にあてはまらなければならない)
  2. 従軍慰安婦が、自らの意思に反する売春を強いられておらず、自らが望めばその仕事をやめることができた、ということを資料で示す。

 山本⑧平氏は1の方法を選択したようだが、それは当時は合法だったから、従軍慰安婦制度も戦前日本の公娼制奴隷制ではない、という実に奇怪なものだった。しかも、私との議論においてだけでなく、あちこちでその奇怪な主張を展開している。



 当時、人身売買が「公序良俗の範囲内」だったかも疑問はあるが、合法だったら奴隷制ではないとすると、合法的な奴隷制、例えば19世紀前半にあったアメリカ合衆国奴隷制奴隷制は、どうなるのか、という疑問が自然に出る。今度は「当時の人間の認識」を根拠に持ち出した。「慰安婦の場合、当時の日本社会も彼女ら自身にも性奴隷との認識」がなかったから、慰安婦は性奴隷と呼べないと言うのだ。

 Aのことを当時Xとは認識していなかったから、現在の人間はAはXであると言ってはいけない、という主張が正しいとなるとどういうことが起こるか。高杉晋作の存命中は、「長州藩士」とは言われてなかったから、彼は長州藩士ではない。「第一次世界大戦」のことを、当時の人間は「一度目の」世界大戦とは認識していなかったから、第一次世界大戦第一次世界大戦と呼んではならない。推古天皇シルクロードも駄目だ。

 つじつまがあわないことを全力で主張する人間が存在することを、知ることができた、というのはひとつの収穫だった。