労働基準法と前借金

公娼制従軍慰安婦制度でつきものの、前借金契約は、現代日本では違法だ、とは皆が理解しているところだと思いますが、実際の法律ではどうなっているか気になるところです。
労働基準法で、「前借金」という言葉が登場するのは、第17条です。

(前借金相殺の禁止)
第十七条  使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。

 前借金と賃金を相殺することは明確に禁止されていますが、前借金をさせておいて、「やめたら、前借金を耳を揃えて返してもらうからな」と労働を強制するのは違法じゃない、と言い出す人がいそうです。
 そこで、出てくるのが、同じ労働基準法の第5条です。

(強制労働の禁止)
第五条  使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。

 条文中に「前借金」という言葉は出てきません。しかし、この条文の解釈について、当時の労働省が出した通達、昭和23年3月2日付基発第381号にこうあります。(赤字にしたのは、引用者。『労働基準法解釈総覧』からの引用です。)

「暴行」、「脅迫」、「監禁」以外の手段で「精神又は身体の自由を不当に拘束する手段」としては、長期労働契約、労働契約不履行に関する賠償額予定契約、前借金契約、強制貯金の如きものがあり、労働契約に基づく場合でも、労務の提供を要求するに当たり、「精神又は身体の自由を不当に拘束する手段」を用いて労働を強制した場合には、本条違反となる(略)

さらには以下のようにあって、私が冒頭で例示した「やめたら、前借金を耳を揃えて返してもらうからな」というのは、「精神又は身体の自由を不当に拘束する手段」となるようです。

「精神又は身体の自由を不当に拘束する手段」とは精神の作用又は身体の行動を何らかの形で妨げられる状態を生じさせる方法をいう。「不当」とは本条の目的に照らしかつ個々の場合において、具体的かつその諸条件をも考慮し、社会通念上是認し難い程度の手段の意である。したがって必ずしも「不法」なもののみに限られず、たとえ合法的であっても、「不当」なものとなることがある。賃金との相殺を伴わない前借金が周囲の具体的事情により労働者に明示のあるいは黙示の威圧を及ぼす場合の如きはその例である。
 さらに興味深いのは、この通達の序文とも言うべき部分です。労働基準法第5条の意義についてこう書いています。この強制労働禁止の条文のみなもとは、新憲法だけでなく、1930年の強制労働の禁止に関する条約にあるのだ、といいたいようです。労働基準法第5条のように、強制労働を禁止する法は、1930年代から必要だったが、ようやく戦後になって実現したとも言えるでしょう。従軍慰安婦問題で「当時の価値観では〜」と言い出す人は多いですが、当時から強制労働を禁止する条約と、そうしたものが必要であるという価値観があったことは忘れるべきではないと思います。
 我が国の労働関係には、今尚暴行脅迫等の手段によって労働を強制するという封建的悪習が残存しているが、従来かかる強制労働に対する直接の処罰規定がなく、僅かに同時に刑法犯を構成する場合に限って処罰し得るに過ぎず、しかも刑法による処罰は事実上殆ど行われなかった。憲法第18条は、国民の基本的人権として「何人もいかなる奴隷的拘束も受けない。又犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服せられない」ことを保障している。労働基準法第5条は、この趣旨を労働関係について具体化し労働者の自由の侵害、基本的人権の蹂躙を厳罰を以て禁止し、以て今尚労働関係に残存する封建的悪習を払拭し、労働者の自由意志に基づく労働を保障せんとすることを目的とするものである。
 既に1930年第14回国際労働会議で採決された「強制労働の禁止に関する条約案」においても「処罰の脅威の下に強要せられ且つ自ら任意に申出たるに非ざる労務」たる強制労働を禁止することが確認せられていたのであるが、今回本条の制定により始めてこれが完全に実施せられることになったものであり、その意義は極めて大きい。