自分の意思で選択した属性であれば、差別してもよい、ということはない。

ジョンお姉さんの『元採用担当者は語る』 - Togetter
上の記事に載っていた以下のコメントについて。

「採用時に差別してはならない」というのは基本的に自分の意思とは無関係に持ったもの(例えば、性別とか障がいとか)で差別してはいけない、という話なので自らの意思による行動の結果は想定していないんじゃないかな。もし親がそういう類で半ば強制的に参加、洗脳という場合は多少法的には考慮の余地はあるかもしれないけどね。

 自分の意思で変えることができない属性による差別はいけないが、自分の意思で変えることができる属性による差別はよい。だって、被差別者にはその属性を変えるという自衛手段があるではないか、という主張する人間がいるが、これはいじめ問題における「いじめられないように、いじめられっ子がまず変われ」という詭弁と同じ構造だ。
 
 こうした主張は、なぜ差別者の行為が不当ではないか、あるいは被差別者の側がなぜ、コストを負担して自衛手段をとらなければならないか、といった議論をとばして、被差別者が自衛さえすればいいという結論を導くから、性質が悪い。
 ある結果が生じることが分かっていて行った行為の結果の責任は、全てその行為を行ったものが負うべきだ、という、一種の自己責任論が背景にあるのかも知れない。しかし、その結果を生じさせたのが、別の人間の行為であれば、その人間の行為を問題にすべきだろう。

 極端な例をあげると、全体主義国家の秘密警察が、政府を批判した政治犯を拷問にかけたとする。この時、政治犯は政府批判をすればこのような目にあうことは分かっていたし、政府におとなしく従うという自衛手段もあった。だから、甘んじて拷問を受けるべきだ、という主張を受け入れる人間は、ほとんどいないだろう。この場合、まず秘密警察の行為の是非を問うべきだ。