「中国」と「支那」〜中国の呼称問題と言葉の汚染

他国では中国をシナと呼ぶらしい – 長崎県立大村高校卒業生同窓会

 上記は、日本以外の国では中国を「秦」にちなむ言葉で呼んでいるのだから、日本だって中国のことを「支那」と呼んで何が悪い、という主旨の記事だ。

 まず、各言語で中国をあらわす単語を列挙して、このとおり外国も「支那」と呼んでいるんだと主張しているが、「秦」にちなむと言う点が、「支那」と共通するだけであって「支那」ではない。しかもその表の中には「秦」に由来しない中国の呼称が含まれてしまっている。例えばモンゴル語とロシア語の中国をあらわす言葉は、中国北部を支配したキタイ(契丹)にちなむものだ。(歴史的いきさつから考えてモンゴル語からロシア語に入ったんだろう)しかも、韓国・朝鮮語に至っては「中国」に由来している。駄目じゃん。

 この中国を「支那」と呼ぶかという問題は、戦後に始まったことではない。
于紅「第二次幣原外交期における中国の国号呼称問題 : 「支那共和国」から「中華民国」へ(研究)」

 中華民国成立期から、中国側の希望に関わらず、日本側が中国の呼称として「支那」を使用していた。また、その理由として日本は外国ではChina等、「秦」由来の言葉が用いられており、「支那」もそれと同じだ、という現代でも持ち出される理由を挙げていた。しかし、前掲の論文を読む限り、「支那」を使用したのは中国への軽侮や敵意といった負の感情が、あったためとしか思えない。この頃すでに「支那」と言う言葉が、ハラスメントの道具に堕していたことが分かる。その意味で、日本の「支那」は英語のChina等とは、別のものになってしまったと言っていいだろう。

 現代でも、あえて「支那」という呼称を使用する人々がいるが、別に「中国」という言葉で言いあらわせない概念を表現したいと等の積極的な意図があるわけでなく、相手がいやがるからとか、中国への侮蔑を表現をしたいために使っているとしか思えない。

 もちろん、「支那」も最初からそうした負の意味をもっていたわけではないが、19世紀のおわりから、「汚染」がすすんですすんでしまったのだ。

 こうした言葉の「汚染」はよく見られる現象だ。負の意味をもっていた言葉が、正の意味を持つようになる現象は、残念ながらほとんど見られないのに、言葉の「汚染」は多く起こる。例えば、障害を持った子ども向けの学校や学級の名称は、変遷を重ねているが、最初は中立的だった名称が、それを侮蔑や差別の手段として使う人間が増えることで、負の意味を持つようになり、改称されるが、その新しい名称も・・という過程が繰り返される。。

 負の意味を帯びてしまった言葉を使用することを咎めることに対して、「もともとは、差別用語でなかったのだ」とか「言葉狩りだ」と反駁する向きもあるが、その矛先はむしろ、言葉を「汚染」した人間に向けるべきだろう。