『昨日までの世界』


『銃・病原菌・鉄』で日本でも名前を高めたジャレド・ダイアモンドの最新作。非娯楽書籍で「待望の最新刊!」なんて書かれた帯ははじめて見たぞ。

 人類の大半が、集権的な国家のもとで生きるようになったのは、人類の歴史からみればそれほどの昔ではない。本書は「昨日までの世界」=伝統的社会をテーマにしたものだが、その伝統社会のさまざまなあり方が興味深い。例えば、泣き出した子どもをすぐかまう社会とか、子どもへの体罰が全く許容されない社会とか。アマゾン奥地のピダハン族の集落に住む、キリスト教の伝道師の娘が、体罰をしないピダハン族の風習をちゃっかり利用して父親からの尻たたきを免れたエピソードなどはにやりとしてしまう。
 とくに本書を読んで感銘を受けた箇所が、伝統社会の戦争についての記述である。伝統社会の戦争関連の死亡率は例外はあっても高い。20世紀のロシアやドイツよりも高い。

 しかし、伝統社会の戦争の存在の証拠を受け入れることを、学者たちはためらってきた。その理由のひとつに対するジャレド・ダイアモンドの指摘が鋭い。


(前略)三つ目の理由としては、国家や植民地政府の影響が考えられる。彼らはやっきになって、先住民を征服し、土地から追い出し、絶滅するのを黙認した。そして、先住民排除の方策を実行するうえで、好戦的な先住民という虚像を創出し、それを口実にみずからの虐殺行為を正当化したのである。学者たちは逆に、伝統的戦争の存在を示す証拠を受け入れないことで、好戦的な先住民という虚像を払拭させ、それをもって、国家や植民地政府の先住民排除の口実を使用不能にしたかったのである。

先住民たちに対する仕打ちに憤りを覚える気持ちはよくわかる。しかし、伝統的戦争が存在するという事実の政治的な悪用がよくないからといって、現実そのものを否定するのは学究的戦略としてよくない。これは政治上の目的が高邁だからといって、現実そのものを否定するのがよくないのと同じである。先住民の虐待がいけないのは、彼らに虚像が被せられたからではなく、虐待することが正しくないからである。(強調引用者)

被害者側が無辜であることを要求する人間がかなりいる。被害者がどんな人間だろうが、彼、彼女を加害することは正しくない。被害者に非行があるとしても、それはそれとしてとがめられるべきであって、誰かの加害行為と相殺されるべきではない。