だったら歌う義務はないんだろう。

「どうして自然な気持ちで国歌を斉唱できないのだろうか。」と最初から、書いているが、だったら、歌うことを強制するなよなと思う。強制されたら自然な気持ちがわくことなんてない。「君が代」を歌えという人びとは、たいていハラスメントの道具として「君が代」を利用しているのであって、ますます自然な気持ちなんて生まれないだろう。
【江戸っ子記者のなにわ放浪記】入学・卒業式で国歌斉唱する意味 世界どの国も「普通」のこと(1/3ページ) - 産経WEST

あとは、「別記」で日章旗の制式と「君が代」の歌詞、楽譜が記されている。国旗国歌法があるからといって、式典などでの斉唱や掲揚を義務づけているわけではない。また、現行の日本国憲法には、国旗国歌の条文はない。

だったら、歌うことを強制される理由はないわけだ。

 世界のどこの国の国民でも、自国の国旗や国歌を誇りとするのは至極当たり前のことだ。この「普通」のことが日本では「普通」ではなくなる。「国」とか「国家」というと、「国民」あるいは「市民」というものと常に対立軸となるように考える戦後の偏向思考法があるためだ。
「国家観」の喪失、そして国民が国や地域社会への帰属意識を忘却してしまったかのような日本。結果は、共同体繁栄の認識や規範意識の希薄さをもたらしてはいないだろうか。その“代償”は猟奇的な動機不明の犯罪の多発や、オウム真理教が行った大量殺戮(さつりく)、さまざまな社会問題の発生によって露呈しているのではなかろうか。

 要約すれば、国旗や国歌にひれ伏すのは、世界のどこの国でもやっていることで、それをしていないせいで、日本では猟奇的な犯罪が多発した、ということだろう。「猟奇的な動機不明の犯罪の多発」というのは、定義があいまいで検証しにくいが、少なくとも日本は「至極当たり前」をしている世界の国の大半より、凶悪犯罪が少ない国である。これをどう説明するんだろう。