曽野綾子氏たちの基準では、個人が自由意思でする差別はしょうがないらしい。

 前回記事では、曽野綾子氏たちが、産経新聞コラムの「炎上」事件の火元を朝日新聞だと誤断していると書いた。『歴史通』2015年5月号の「私たちを「炎上」させようとした「朝日」」を読むと、曽野氏も渡部氏も、あのコラムの内容は全く問題がなかったと考えていることが分かる。どうやら、国家意思による差別は駄目だが、個人の意思による差別は問題ないという認識らしい。

曽野 ここに住んではいけないという規制があり、ここに住まねばならないと強制される、それを守らなければ罰を受ける、それがアパルトヘイトです。私が言っているのは全然そうではない。アジア人ならアジア人、アフリカ人ならアフリカ人同士で住んだほうが楽でいいんじゃないですかというだけの話です。どこに住まねばならない、住んではいけないなんて言っていない。ましてそういう規則をつくれというのでもない。アパルトヘイトとはまったく違います。

渡部 ぼくが50年前にアメリカの大学で教えていたときには、「あの町にも黒人が住み始めた」とか、「大変だ、あの町はそのうち黒人ばかりになるぞ」とか、そんな話をよく耳にしました。いまもアパートに新しい人が入るときには居住者代表が集まって審査することもある。それは自由意思でやっているからアパルトヘイトとは言わないわけですよ。(中略)アメリカでは、自由意思のもとで実際上はいまも"アパルトヘイト"が行われている。それは文句を言ってもしょうがない、自由主義ですから。ところが万一アメリカで居住区を強制したりしようものなら大変なことになりますよ。

 人種を理由に入居させないというのは、あきらかな人種差別なのだが、渡部氏にとっては「文句を言ってもしょうがない」ことらしい。曽野氏も渡部氏も「アパルトヘイトではない」としつこいぐらい言うのだが、アパルトヘイトというのは、南アフリカ共和国における人種差別的政策をさすのだから、アパルトヘイトではない人種差別は、いくらでもある。アパルトヘイトは人種差別だが、人種差別全てがアパルトヘイトではない。曽野氏も渡部氏もアパルトヘイトであらずんば、人種差別にあらず、と錯覚させたいようだ。

 あと、曽野氏も渡部氏も産経新聞コラムの「炎上」事件のことをさして、「(曽野氏に対する)ヘイトスピーチ」、「国家のかわりに検閲」などと、言っている。しかし、曽野氏への批判は、それこそ個人の意思によるもので、曽野氏の言論が、国家意思によって禁圧されたわけではない。曽野氏と渡部氏が自分の主張に忠実であれば、「文句を言ってもしょうがない、自由主義ですから」と言うはずだが、どうやら違うようだ。