渡部昇一氏のさかうらみ〜「神聖な義務」事件

渡部昇一氏は1980年に障害者は社会に莫大な負担をかけるから、その出現を未然に防ぐことは、神聖な義務である、という主旨のエッセイを書いて、当事者から批判を受けた。当時、渡部氏は『週刊文春』に「古語俗解」というエッセイを連載していたが、そこに作家の大西巨人氏が第一子が血友病であったのに、第二子をもうけやはり血友病だったことを「未然に避けうるものは避けるようにするのは、理性のある 人間としての社会に対する神聖な義務である」と批判した。当然、大西氏の逆鱗にふれたわけだが、この事件について、『歴史通』2015年5月号に「私たちを「炎上」させようとした「朝日」」で、渡部氏は、こう振り返っている。

それから週刊新潮が、血友病患者である大西巨人氏の次男のことを4ページにわたって報じたことがあって、ぼくはそれを読んで、「悪性の遺伝病があるとわかったら、第二子(を持つことを自ら控える選択がカトリックでは宗教的に高い価値があるとされる」という主旨のエッセイを書いた。
(中略)
すると早くも翌朝の朝日新聞の社会面トップに「大西巨人氏VS渡辺昇一氏」という記事がデカデカと載りました。読んでみると、ぼくと大西巨人さんのあいで劣悪遺伝の問題をめぐって論争が繰り広げられたことになっている。見出しだけを拾えば、ぼくが「劣弱者は抹殺せよ」と主張するヒトラー礼賛者であるかのような印象を与える紙面になっていました。
 大西巨人さんの本を読んだこともなければ会ったこともないのに、対談したことになっているんです。捏造というのはこういうものかと思いましたなあ。

この事件、渡部昇一氏のエッセイのタイトルから「神聖な義務」事件と呼ぶことにするが、発端となったエッセイは、連載をまとめた『古語俗解』(文芸春秋)収録されている。また、以下の記事にも全文が引用されている。
http://www.livingroom.ne.jp/db/h003.htm

「神聖な義務」事件を取り上げた朝日新聞の記事は、1980年10月15日の朝刊の「大西巨人氏VS渡辺昇一氏」だ。見出しはこうなっている。

  • 劣悪遺伝の子生むな 渡部氏、名指しで随筆
  • まるでヒトラー礼賛 大西氏激怒

 この見出しが、「ぼくが「劣弱者は抹殺せよ」と主張するヒトラー礼賛者であるかのような印象を与える」か疑問であるし、「会ったこともないのに、対談したことになっているんです。」に該当する記述はない。また、渡部氏自信のエッセイに「カトリックでは宗教的に高い価値があるとされる」などと解釈できる記述はない。つまり、渡部氏は朝日新聞の記事と自分のエッセイについて捏造しているわけだ。「捏造というのはこういうものかと思いましたなあ。」はそのまま渡部氏に返さなければならないことばだ。

 渡部氏のエッセイ「神聖な義務」は中身そのものがひどいのだが、渡部氏はエッセイに予防線を張っていたり、『古語俗解』の後書きなどにいいわけを書いている。以下、それらを見てみよう。


ヒトラーの礼賛でなければよい?

渡部氏は自分はヒトラーを礼賛していない、カレルに賛成しただけだと述べる。(『古語俗解』後書き)これは、アパルトヘイトでなければよい、という、曽野綾子氏の主張と共通するものがある。しかし、渡部氏のエッセイを読んだら、カレルの優生学についての考えが、ヒトラーのそれと異なるところはないようにしか思えない。朝日新聞の記事にある、大西巨人氏の「アレクシス・カレルの「人間―この未知なるもの」をまともに読めば、彼の基本的思想がヒトラーの立場になかなか酷似していることがわかるはず」というのが正解なのだろう。

 そもそも渡部氏は、エッセイの前半で、ナチスがジプシーを一掃していたため、ドイツでは、フランスやイタリアと違って不愉快な目に遭わなかったという主旨のことを述べているのだ。本当にジェノサイドが非人道的犯罪と思っているのか疑問を抱いてしまう。

自発的な義務?

渡部氏は、国家権力が強制するのと、当事者が自発的な意思でするのは大きく異なると言う。

国家が法律で異常者や劣悪者の断種を強制したり処置するのと、関係者、あるいは当人の意志でそれをやるのでは倫理的に天地の差がある。劣悪遺伝子を受けたと 気付いた人が、それを天命として受けとり、克己と犠牲の行為を自ら進んでやることは聖者に近づく行為で、高い道徳的・人間的価値があるのである。

 だったら、強制ではないのだから、当事者が子孫を残す、という選択をしても批判を受ける理由はないはずだ。ところが、第二子をもうけた大西氏の選択を批判している。タイトルにも本文にも「神聖な義務」ということばを使っている。当人の自主性にゆだねられていることが義務だ、というのは、ひどい矛盾だ。ボランティアを義務化するみたいなものだ。
 さまざまな事柄への協力や参加、例えばサービス残業や飲み会への参加が当人の自主性にゆだねられているか判定するには、参加しない選択をした人間にどのような視線が注がれるか見ればよい。あいつだけズルいと批判されるようなら、その事柄は、当人の自主性にゆだねられているのではなく、強制力が働いている。
 渡部氏は、横にらみの同調圧力で、「劣悪遺伝子」をこの世に残すことができない世界を願っているのかも知れないが、そんな世界はごめんこうむる。

 また、「神聖な義務」とやらを果たしていない例が、ヨーロッパの王族に、少なからず、あるのだが、渡辺昇一氏が、それについてどう考えるのか、知りたいものだ。


劣悪遺伝子?

 渡部氏は「劣悪遺伝子」ということばを使っているが、それが何であるか説明していない。「劣悪遺伝子」といえば、『銀河英雄伝説』の「劣悪遺伝子排除法」しか思い出さないが、あれはルドルフが非科学的な妄想にとらわれており、彼が専制君主であったためにおびただしい人の死につながったという描写だと思うが、 渡部氏のいう「劣悪遺伝子」も特に科学的な根拠が示されていない。それ単独で病気を引き起こす遺伝子は、珍しいし、病気の原因となる遺伝子を持っていない人間なんているのだろうか。また、障害者かどうかは、社会のデザインによっても左右される。眼鏡がない世界では、渡部氏も障害者になるのではないだろうか。
 
「既に生まれた生命は神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらない、というのが私の生命観である」と渡部氏は述べるのだが、彼がエッセイで主張しているのは、障害をもった人間は、社会に負担をかけるから、メンバーに入ってくるのを防止しなければならない、ということだ。また、「私が問題にしているのは終始受胎以前の親の倫理観であることを見落としなきようお願いしたい。」と述べているが、受胎以前に生まれてくるであろう子どもが、障害を持つかなんて分かることは、まれなことだ。渡部氏の主張のような考えは、「既に生まれた生命」をどうにかする方向に進んでいくだろう。


「神聖な義務」事件は、「私たちを「炎上」させようとした「朝日」」をきっかけにはじめて知ったことだが、渡辺昇一氏のような考えが、社会で影響力を強めないようにしたいものだ。