これも感動ポルノの一種だな
障害者などのマイノリティを「あんなに不幸でも頑張っているんだ」という感動の材料として消費する悪弊に「感動ポルノ」という的確な名称がついていることを、最近知ったのだが、下もその感動ポルノの一種だろう。
差別との正しい戦い方。アメリカ人でありながら差別を受けた日系人は命を賭けてまで「自分たちは社会の役に立つ」と証明した。そのような者に対しては大統領だって敬礼するのだ。彼らが単に「差別だ」と被害者面しているばかりだったらどうなったろう? pic.twitter.com/aVc0Mc5zOa
— Katana Edge (@amiga2500) 2014, 11月 9
第二次世界大戦において、米軍の日系人将兵が勇敢に戦ったことは事実だが、マイノリティが忠誠心を示すために命がけで戦わなければならないこと自体、ひどい差別だ。それに感動するのは、エレベータが設置されていない駅で、足が不自由な人間が必死に階段を登っている姿に感動するようなものだ。第一、社会の役に立っても、立たなくても、差別を受けないが当然のことだ。命がけで戦ったら、差別されないとと言われたら、私なら詐欺だと思う。のどに骨がひっかかって苦しんでいる狼から、鶴が嘴で骨をとってやったら、おれの口の中に嘴を入れたのに、無事でいられたのが、何よりのお礼ではないか、と謝礼を拒否されたというイソップ童話みたいだ。*1
感動ポルノに惑溺すると、自分たちを感動させないマイノリティを道徳的に誤っているとみなしがちだが、上で引用したツィートからも、権利を主張するマイノリティへの嫌悪が感じ取れる。
日系米人に話を戻すと、トルーマン大統領は日系人部隊の第442連隊戦闘団に感状を送ったが、強制収容所に日系人を送ったことを謝罪したり、補償をしたわけではない。それらは当事者とその協力者の要求と運動によって、ようやく実現したことなのだ。命を懸けて忠誠心を示すことが「差別との正しい戦い方」とは、とても思えない。