南京事件について、あったと言う側がまずあったことを証明しろ、という主張がおかしい理由
自分が嘘をついていることを、他人に知られても平気な人間もいるのだな。 - davsの日記に同じ言葉を返します氏が以下のようにコメントした。
裁判では刑法に触れる事実が「あった」とする検察側に立証責任がある 南京事件も同じ。「ない」と主張する側には「あった」と主張する側の ポリティカルコレクトネスに付き合う必要はない。
南京事件について、刑事裁判における無罪の推定の原則をあてはめ、まず、南京事件史実派が南京事件の存在を立証するべきだ。しかも、その立証に少しでも疑わしいところがあれば、それは南京事件がなかったという根拠になる、という主張は少なからず目にする。
しかし、この主張はふたつの点から誤っている。ひとつは南京事件の存在、不存在は、そもそも刑事裁判で争われているわけではないこと。もうひとつは、南京事件否定派に、事件がなかったことを証明しろ、ということは、無茶な要求ではないということだ。
そもそも刑事裁判ではない。
刑事裁判は、国家と私人との間でおこなわれ、被告人に刑罰を科すべきかを問うものだ。検察側は被告側にはない捜査権もあるし、組織として力も大きく違う。国家がほしいままに私人の生命や自由を奪うことないように、検察側に立証へ高いハードルを課し、被告人は自らの無実を立証する責任を負わない。ひるがえって、南京事件史実派が南京事件否定派の生殺与奪の権を握っているわけではない。南京事件否定論が、否定されれば、否定論者が絞首刑に処せられたり、獄につながれるわけではない。南京事件否定派にハンデを与える必要は、どこにもないだろう。南京事件がなかったことを証明しろ、ということは、無茶な要求ではない。
前述の無罪の推定を適用すべき、という主張に似たものとして、南京事件がなかったことを証明することは「悪魔の証明」であって、不可能だ。したがって、史実派の方が、立証責任を負うのだ、という主張もある。それでは、史実と認められていない事件、ことがらは全て「悪魔の証明」をへて、「なかった」ことになっているのだろうか。例えば、源義経が衣川で死なず、後にチンギス・カンになったという伝説は、史実と認められていないが、それは源義経とチンギス・カンが同一人物では「ない」ことが、証明された結果ではない。(チンギス・カンの前半生についての信頼できる新史料が発見されれば別だろうが)ふたりが同一人物で「ある」ということを実証できていないからである。
もっと極端な例を出すと、20世紀のはじめのイギリスに火星人が襲来した事件があったと信じる人間はいないだろうが、それはそうした事件が「なかった」と証明されたからだろうか。もしも、火星人があやつる三本脚の戦闘機械とイギリス軍が一戦交えたのだ、と主張する人間がいたら、その主張を裏付ける証拠を要求するだろう。「なかったこと」を立証できなければ、あったことになるとは考えない。
南京事件の方は、そのの存在が膨大な資料によって実証されている。被害者の中国人や第三者の外国人だけでなく、加害者の日本軍が残した資料もある。南京事件否定派は、それらの資料が事件を実証するものでないと、実証すればよいのだ。そのことに東京裁判以来、失敗しているということだ。