「トロッコ問題」に潜む人間の残酷さ

「トロッコ問題」について書かれた記事を読んだ。
あーちゃんに「トロッコ問題」をやらせてみた : あーちゃんはmath kid

「トロッコ問題」というのは次のような問題だ。
線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。

あなたは以下の状況に置かれているものとする。

あなたは線路の分岐器のすぐ側にいたあなたがトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でも1人が作業しており、5人の代わりに1人がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。あなたはトロッコを別路線に引き込むか?

ロッコを脱線させるといった手段は使えないし、線路内で作業中の人間に急をしらせて避難させることもできない。さらに登場する6人のなかには、あなたにとって特別な人間、例えば恋人・家族であるとか、小学校の時のいじめの加害者はいないということも前提にしなければならないだろう。つまりは「5人を助けるために、1人を犠牲にするか」というところに問題が集約する。その上で、「5人を助けるために、1人を犠牲にすることはやむを得ない」あるいは、「自分の行為で人の生死が左右されるのは嫌だ」という判断が生じる。

ところで問題をこう変形させる。
あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。ただし、あなた自身が線路へ飛び降りてトロッコを阻止することは体格の問題から不可能である。あなたは5人を救うために、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とすだろうか。

 リンク先の記事で「あーちゃん」が指摘したとおり、この問題も、「5人を助けるために、1人を犠牲にするか」ということだ。私も「あーちゃん」と同じ回答をする。*1

ところが、多くの人が、1番目の質問では一人を犠牲にすることは許されると答えるのに対し、2番目の質問では一人を犠牲にすることは許されないと答えるそうだ。

冷たい言い方をすれば、これは「転轍機を操作することで、人を殺すのはよいが、線路に突き落とすことで人を殺すことは嫌だ」と言っていることになる。これは人間の脳の構造によるのか、文化によるのか、わからないけれど、殺される人間の姿を見えなくする等の「工夫」をすれば、人間を殺すことへの抵抗が弱くなるということだ。また、こうした性向を自覚していないと、とてつもなく残酷な行為をそれとは感じずにおこなってしまう危うさがあるだろう。

複数の生命を救うために、ひとりの生命を犠牲にしなければいけない状況を描いた傑作SF

人が人を殺す時の心理的抵抗について

*1:もちろん、現実世界ではこのような究極の選択に追い込まれる前に手を打たないとならない。