『帝国憲法の真実』〜人生において何の役にも立たないことだけは約束します。

帝国憲法の真実 (扶桑社新書)

帝国憲法の真実 (扶桑社新書)

本記事のタイトルにつけた副題だが、我ながらひどいことを書いている、と思う。しかし、この表現は、今回紹介する『帝国憲法の真実』の中で、筆者の倉山満氏が、憲法学者の著作を評して言っていることなので利用させていただいた。

このブログで、『『永遠の0』と日本人 』『改正・日本国憲法 』と右翼本をレビューしてきたが、第3弾として取り上げるのが、この『帝国憲法の真実』である。

行間から日本国憲法に対する怨念と敵意がたちのぼるのは、前に紹介した2冊と同じであるが、本書は、いろいろ常識外れな記述があって楽しめる。
冒頭から飛ばしてくれる。

憲法記念日である五月三日を「ゴミの日」とはよく言ったものです。確かにゴミのようにひどい日本語です。(日本国憲法前文が 引用者注)何を言っているのかまるでわかりません。(p.15)

私が日本国憲法前文にはじめて接したのは、中学生のころだが、さすがに「何を言っているのかまるでわかりません。」ではなかった。日常使う文体ではないが、憲法なんだし、こんな肩ひじ張った文なんだろう、と考えていた。
実のところ、『帝国憲法の真実』には、「何を言っているのかまるでわかりません。」と言いたくなるところが一杯ある。

そして前文がわざと直訳調の下手な日本語になっています。すなわち「この憲法は日本人の手によるものでなく、アメリカ人が押し付けてきたので、日本政府は嫌々受け容れているのだ」という暗号なのです。(p.26)

「なんだってぇー」と叫びたくなったよ。暗号ということは、発信者と受信者がいるはずだが、誰なんだろう。それにしても、70年近く誰も気付かなかったとは… ああ、そうか、当時の憲法制定関係者の誰かから、倉山氏にあてた暗号なんだ。

おかしな政教分離の定義
政教分離を定めた憲法第20条について、靖国神社を狙い撃ちにした条文で、以下のように読みとくことができると書いている。(p.89)

第一項
靖国神社は、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第二項
何人も、靖国神社の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第三項
国及び靖国神社は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

筆者は「見事に意味が通じてしまいました。つまり、靖国神社のことを正しく、教育し、伝えてはいけない、ということなのです。」と自画自賛するが、少なくとも第3項は、意味が通じないぞ。靖国神社は国の機関じゃないし、いつ宗教活動を禁止されたのだろうか。寡聞にして知らないな。

靖国神社は、遺族や生存している本人(!)から合祀を止めるように求められても、はねつける*1 *2 *3ような宗教団体だが、信教の自由を認めた日本国憲法のもとでは、自由に活動できる。

倉山氏は政教分離を「政治と宗教の分離」とするのは、誤解であって正しくは「政府」と「宗教教団」の分離だという。

ひどいのは、「政治と宗教の分離」と書いてある場合です。これが特定の教科書をあげて証拠を出すレベルにとどまらないのは、最高裁判例もそのレベルの理解だからです。  最高裁の無理解ぶりをあげつらう前に、政教分離の正しい意味を確認しましょう。 「政教分離」とは「政府」と「宗教教団」の分離です。

しかし、「政府」と「宗教教団」が一体化している国といったら、ダライラマ支配下チベットぐらいしか思いつかない。筆者のいうような緩やかな基準でいいのなら、中世ヨーロッパでも政教分離が実現していた、と言えそうだ。ところが、その直後に自分が提示した政教分離の定義を無視したことを書くのだ。

政教分離の実態は各国の歴史によるので、細かく見ればいくらでも違いを指摘できるのですが、非常に単純に分ければ、フランス型とそれ以外の国型になります。
(中略)
フランスはまさしく「政治と宗教を分離している」と解釈していいでしょう。(pp.100-101)

筆者の言いたいことを整理すると、

  1. 「政治と宗教の分離」ではなく政教分離は「政府」と「宗教教団」の分離である。
  2. 政教分離にはフランス型とその他がある。
  3. フランス型の政教分離は「政治と宗教の分離」である。

いやあ、2ページの間でこれほど矛盾したことを書けるのはすごいことだ。なんてひど…、いやユニークな言語感覚なんだろう。

アメリカ合衆国政教分離についても、いきなりおかしなことを書いてくれる。

J・ケネディ大統領暗殺時に副大統領から昇格したL・ジョンソンは特別機エアフォースワンの機内で聖書に手を当てて宣誓しました。アメリカ大統領就任でもっとも重要な要件は、「聖書に手を当てて宣誓」することなのです。(p.104)

L・ジョンソンが宣誓の時に手を当てたのは、聖書でなくカトリックカトリックのミサ典書だ。筆者は日本の裁判官や憲法学者を「宗教音痴」とこき下ろしているが(p.106)、まさか、聖書とカトリックカトリックのミサ典書を混同していないよね。

さらに、第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズなどは、聖書でなく憲法典を使って宣誓した。*4決して、「聖書に手を当てて宣誓」しなければ、アメリカ合衆国の大統領になれないわけではない。
アメリカ合衆国の大統領の宣誓に聖書が使われることは、よく、日本の政教分離を論じる時に持ち出される話である。それはたいてい、靖国神社の問題において政治と宗教を厳格に分離すべきという意見に反対する文脈で使われる。しかし、アメリカ合衆国憲法は「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律(中略)を制定してはならない。」(権利章典修正第1条)とあるだけで、国に求められている政教分離の厳格さの基準が日本より緩やかだ。しかも、「聖書に手を当てて宣誓」していない大統領がいることは明記されるべきだ。

愛媛玉串料訴訟へのトンデモ批判
愛媛玉串料訴訟のことを筆者は「トンデモ判決」と違反している。これは愛媛県知事が、戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことにつき争われた訴訟で、最終的に最高裁違憲判決を出したものだ。この判決を日本の歴史や文化や常識をより、憲法の条文を優先したのだ、と批判する。

園部逸夫裁判官の目的効果基準についての個別意見を、意味不明と叩いている。筆者はその個別意見をこう引用している。


(前略)裁判を主導したといわれる園部逸夫裁判官目的効果基準に関して、「客観性、正確性及び実効性について……疑問を抱いており、特に、本判決において、その感を深くしている。しかし、その点はさておき、本件において、……右基準を適用する必要はないと考える。」などと、意味不明な個別意見を残しています。(p.109)
「……」は、倉山氏が省略記号として使っている。それでは、園部逸夫裁判官は意味不明なことを言っているのか、原文に当たってみよう。*5

ここで、二つのことを付言しておきたい。まず、従来の最高裁判所判例は、公金を宗教上の団体に対して支出することを制限している憲法89条の規定の解釈についても、憲法20条3項の解釈に関するいわゆる目的効果基準が適用されるとしているが、私は、右基準の客観性、正確性及び実効性について、尾崎裁判官の意見と同様の疑問を抱いており、特に、本判決において、その感を深くしている。しかし、その点はさておき、本件において、憲法89条の右規定の解釈について、右基準を適用する必要はないと考える。

随分、印象が違う。倉山氏は、不明だが園部逸夫裁判官の目的効果基準についての個別意見の重要部分を脱落させて引用している。園部逸夫裁判官は、個別意見全体で愛媛県知事の支出を「宗教上の団体の使用のため公金を支出することを禁じている憲法89条の規定に違反するもの」としているのだ。倉山氏は、その前提を語っていない。悪質な印象操作という批判を免れないだろう。
倉山氏は法文の字面より、「日本の歴史や文化」や「常識」を重視するが、そういったものを文字になっていないものを定義し解釈する権利は、マジョリティに独占され、マイノリティへの圧迫につながることが多い。常識を共有しない人間同士の共存が、憲法や法律の目的のひとつであるし、法律は字面にこだわるべきだろう。

これについて、愛媛玉串料訴訟における裁判官尾崎行信裁判官の意見が鋭いので引用しておく。

我が国における宗教の雑居性、重層性を挙げ、国民は他者の宗教的感情に寛大であるから、本件程度の問題は寛容に受け入れられており、違憲などといってとがめ立てする必要がないとするものもある。しかし、宗教の雑居性などのために、国民は、宗教につき寛容であるだけでなく、無関心であることが多く、他者が宗教的に違和感を持つことに理解を示さず、その宗教的感情を傷付け、軽視する弊害もある。信教の自由は、本来、少数者のそれを保障するところに意義があるのであるから、多数者が無関心であることを理由に、反発を感ずる少数者を無視して、特定宗教への傾斜を示す行為を放置することを許すべきでない。さらに、初期においては些少で問題にしなくてよいと思われる事態が、既成事実となり、積み上げられ、取り返し不能な状態に達する危険があることは、歴史の教訓でもある。この面からも、現象の大小を問わず、ことの本質に関しては原則を固守することをおろそかにすべきではない。

その2に続く