手垢のついた、あまりにも手垢のついた〜百田尚樹氏の南京事件否定論
前回に引き続き、『大放言』に書かれた百田尚樹氏の南京事件否定論について書く。
百田氏の南京事件否定論の根拠は、おおむね下記のとおりだ。百田尚樹氏は1937年12月の南京攻略戦前後における日本軍による非戦闘員や捕虜の殺害、強姦、略奪等の行為はなかったとの立場だ。したがって、ハーグ陸戦条約をいじくって、捕虜の殺害は合法だったとする主張は含まれていない。
- 蒋介石子飼いのジャーナリスト以外は、事件を報道した記者はいない
- 占領される直前の南京市民は20万人だった。30万人を殺せるわけがない。また日本軍の占領後1か月で南京市民は25万人に増えた
- 南京事件には伝聞証拠以外に証拠はない。
- 証拠写真の大半は捏造ないし合成であることが証明されている。
- 日本で南京大虐殺が問題になるまで、毛沢東も周恩来も、中国政府も南京大虐殺を問題にしていなかった。
- 14年間も続いた日中戦争の間で、大虐殺の話があるのは、1937年12月の南京市だけである。日本軍の性質がこの時だけ変わったというのは、不自然である。
- 蒋介石が、松井石根大将に対して「申し訳ないことをした」と語った。
1から5については、前世紀末に出版された『南京大虐殺否定論13のウソ』でも、強力な反論が提示されている程度のものだ。
6については、重慶などへの爆撃や、平頂山事件などを考えれば、前提からして誤っている。
7の蒋介石発言については、ソースは以下のものだろう。
A
私は総統に敬礼してから、「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げた。
「いつか。」と聞かれるので「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で・・・・」と申し上げた。
松井大将の名を聞くや、蒋介石の顔色が見る見る変わった。
ふるえ声で――「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われ、眼を赤くして涙ぐまれた。
私は驚いた。一同も蒋総統のこの異様な態度に驚いた。
周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、〈虐殺事件〉など一言も触れていない。何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。それを東京裁判は、松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。
あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉(じゅんほう)したばかりか、留学生当時から自分(蒋)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何らむくいることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪(えんざい)で刑死せしめた。悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。
「<実録>松井石根大将と蒋介石 南京大虐殺などなかった傍証」田中正明 『興亜観音第10号(平成11年10月18日号)』
B
最後に私は、蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後「私は総統閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げました。」
すると「いつ?どこで?・・・・」とたずねられた。
「昭和11(1936)年2月に、松井石根閣下と2人で、南京でお目にかかりました」
その時「松井石根」という名を耳にされた瞬間、蒋介石の顔色がさっと変わりました。
目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」手が震え、涙で目を潤ませて、こう言われるのです。
「南京には大虐殺などありはしない。ここにいる何応欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録しているはずです。私も当時大虐殺などという報告を耳にしたことはない。・・・・松井閣下は冤罪で処刑されたのです・・・・」といいながら涙しつつ私の手を2度3度握り締めるのです。
「東京裁判とは何か、七烈士五十三回忌に当たって」田中正明 『興亜観音第15号(平成14年4月18日号)』
1999年のAでは、蒋介石の発言は、松井石根に冤罪を着せたことへの悔恨というのは、書き手の想像であるが、2002年のBでは、蒋介石自身の発言となっている。蒋介石がそれほど重要な発言を行ったのなら、1966年当時から大きな話題になったはずだ。百田氏は、南京事件については、当時は問題にならず、後から出てきたからという論法で否定するのに、こちらの方は信用するらしい。蒋介石が「松井閣下には、申し訳なきことを致しました」と本当に言ったにせよ、中国語ではどういったのだろう。謝罪ではなく、「残念な亡くなり方をした」というような、死者を追悼するニュアンスで言ったと解釈するのが自然ではないか。