生まれる前の障害児の選別は、今生きている障害者への差別になるし、差別の結果でもある。

以下のような問題提起があったが、②の問いに私は「なる」と答える。そして、障害者への差別があるから、出生前診断による障害児の排除が推奨されるという、差別の結果でもある。

 ここで仮想の社会を出す。
 その社会では男児を持つことがよしとされておらず、また胎児の性別を理由にした中絶が認められている。当然、多くの親が男の胎児を中絶する。男の子どもを出産する親もいるが、こんな言葉を投げかけられる。
「どうして中絶しなかったの」
「男の子を生むなんて、男の子は生きていくのが大変だし、本人も可愛そうだよ」

 さてこういう社会の男性は安心して生きていけるだろうか。男性が差別を受けていないと言えるだろうか。

 脳性マヒの私は、障害者はいない方がよいことだとか、出生前に排除してもやむを得ない、という主張に接すると、自分の生存価値を割り引かれたような恐怖を感じる。足下が砂になって崩れて行くように感じる。
 問題になっているのは、胎児であって、現に生きている障害者には関係ない話だ、という反論もあるだろう。以前とりあげた渡辺昇一氏もそういう逃げ道を付け加えていた。

 しかし、障害を持つ胎児を選別するのことが当たり前の社会では、現に生きている障害者への支援が充実していることはないだろう。そもそも障害者についての負担を分かち合いたくない、という考えが、障害児を胎児の段階から排除すべしという主張の起点だから当然そうなる。特に障害を持つ子どもを持つ親に対して、ひどく冷たい社会であるだろう。

 お前は好き好んで障害児を産んだのだから、自分で何とかしろ。人に助けを求めるな。自己責任ということになってしまうだろう。そして、障害者が生きにくいから、という理由で、生まれる前の障害児の排除を選択させられることになる。