やはり、従軍慰安婦は性奴隷というしかない〜『漢口慰安所』のエピソードから

吉見義明氏の『日本軍「慰安婦」制度とは何か』 (岩波ブックレット 784)にも、紹介されていますが、漢口の陸軍慰安所に勤務し『漢口慰安所』(図書出版社)、その衛生管理も行なった軍医大尉の回想録に、慰安婦になるための性病検査を受けることを抵抗する女性についてのエピソードがあります。

なまりの強い言葉で泣きじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられるとは知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く。(p147)

これは、どう考えても、誘拐の被害の訴えなのですが、特にそれとして、例えば憲兵が業者や女性に事情聴取するとか、女性を帰郷させるといった措置を軍の当局がとったという、話は出てきません。軍の慰安所の運営に関して、軍は犯罪を黙認していた、と言われても仕方のないところです。

公娼制の実態をかんがみれば、売春施設を設置して、女性を集めたら、誘拐や人身売買の被害者がやってくることは、当然予想できることです。軍に犯罪を予防し、被害者を救済する意志があるなら、誘拐や就業詐欺の被害の訴えがあった場合の対処の方法が定められていてもいいはずですが、そうはなっていないようです。陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」 を根拠に、従軍慰安婦問題否認論者は、日本軍は、違法な慰安婦の徴募を止めようとしていたのだ、とよく主張するのですが、この副官通牒に書いてあるのは、業者の選定を周到適切にしろ、とか関係地方の憲兵及警察と連携を密にしろ、といったことで、人身売買の被害者が連れて来られたら、軍の手配で帰郷させろ、とか、違法行為をした業者を逮捕しろ、二度と使うな、と具体的に書いてあるわけではありません。実は、誘拐や就業詐欺の被害の訴えがあった場合の対処の方法が定められていて、この軍医が怠慢あるいは故意によって、その対処をしなかった、という可能性もありますが、それははごく低いものでしょう。

 ところが、このエピソードについて、ツィッター上で議論したとき、ある人物(既にブロックされましたので、T氏としておきます。)が、これは、契約条件について誤解があったので、業者に女性をさしもどして、話し合いをさせたところ、女性も納得したというものだ、その後の記述を読めば分かる、と主張しました。それではどう書いてあるのでしょう。

翌日、昨日の女が同じ二階回りと業者にともなわれてやって来た。当人も承知しましたので臨時に検査をお願いしますという。(中略)
昨日、あれから業者や二階回りに説得され、一つ二つ頬ぺたを張り飛ばされでもしたのであろう、一晩中泣いていたのか、眼はふさがりそうに腫れ上がっていた。(前掲書p148)

どうも、まともな「説得」が行なわれた訳ではないようです。これを女性が自分の意思で検査を受けに来たとみなす人は、よほどひねくれた人でしょう。そもそも、誘拐の被害者を、その誘拐の容疑者のもとに戻す、というのが、常軌を逸しています。そもそも、このエピソードは、日本政府が公娼制を人身売買や奴隷制ではない、と言い繕うための前提を破壊しています。公娼制では、売春をする女性は、その自由意志で行なっており、売春業者は、「貸座敷」という名称が示す通り、売春の場所を貸しているだけ、という建前です。その建前からすると、業者が、売春するように女性を「説得」したり、当人に代わって慰安婦になるための検査を依頼する、というのは、異常です。
 現代日本で、例えば、建設業の許可を取るように、事務所の貸主が、説得したり、官公庁の許可窓口に同行して代弁するなどということはあり得ないでしょう。
 「「人身売買排除」方針に見る近代公娼制度の様相」(眞杉侑里)に以下のような記述があります。(T氏は、この論文を慰安婦問題で日本政府を免責する材料として持ち出しました)

日本政府は、個人の自由意志を軸として就業・廃業時にそれが発揮される事、或いは自由意志の発揮が阻害される場合にあってはそれを処罰対象と認定する事により「他者の拘束を受けることが無い=人身売買ではない」と近代公娼制 度の人身売買的側面を否定してきた。これに対し国連調査団は1932年実地調査報告書に「此の法令(娼妓取締規則第6条)の精神並に目的は常に必ずしも遵守せられざるものゝ如く、警察当局が警察署に雇主を出頭せしめ、之と廃業希望者本人又は其の父母親族と協議せしめ、又は本人を壓迫する等の事実は、屡ゝ本人をして其の年期満了又は雇主に対する債務完済に至るまで貸座敷に止まらしむるの結果を来す懼れあり」と日本政府の主張を疑問視する見解を寄 せており、前借金と娼妓稼業に関連性を見出している。
 公娼の廃業にあたって、警察当局が、女性やその父母親族と、業者を話し合わせている事実が、日本政府のいう、公娼制が人身売買ではない、という建前を否定するものだ、と国連調査団はみなしているわけです。ここから、考えると『漢口慰安所』に書かれた業者が女性を「説得」したというエビソードは、従軍慰安婦制度は、当時の公娼制での建前すら守られていない、性奴隷制だったことを示すものだと言えるでしょう。