デメリットを上回るメリットがあるとも思えない。〜省庁の移転

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12159621.html?rm=150
http://www.asahi.com/articles/ASJ1D5QJBJ1DULFA034.html

文化庁は京都へ、消費者庁は徳島へ移転する方針という記事だが、移転にどんなメリットがあるのか、分からない。

一方、深刻なデメリットを負うのは職員だろう。東京やその近隣の県に自宅を所有していたり、家族が東京から離れられないということもあるだろう。一時的な転勤でなく、恒久的に職場が変わるわけだ。定年まで、単身赴任というわけにもいくまい。そこまでして、移転するメリットはあるのだろうか?

産経新聞の「蒸し返し」の例

産経新聞は何が何でも、従軍慰安婦が奴隷だったと言う主張を認めたくないようだ。
【「帝国の慰安婦」在宅起訴】誤解と曲解が独り歩きする韓国社会を反映 異論認めず“聖域化”する慰安婦問題(1/2ページ) - 産経ニュース

記事は朴裕河世宗大教授へ元慰安婦らへの賠償を命じた判決に、慰安婦問題についての日韓合意をからめたものだが、対日関係がからむならともかく、韓国内の名誉毀損裁判が日韓合意に拘束されるはずだ、というのは実に奇怪な考えだ。韓国の裁判所が、政府におもねった判決を出したら、それこそ産経新聞は、「韓国には三権分立はないのだ」「遅れた国だ」と書き立てるだろう。

判決は、韓国政府の意向を反映したとされる河野談話や、事実誤認が含まれる国連人権委員会のクマラスワミ報告書などを根拠にしている。「本人の意思に反し、強制動員され、慰安所で最低限の人間らしい生活も保障されなかった」とし、慰安婦を「性奴隷同様」と断定している。
慰安婦問題は先月末の日韓合意で「最終的かつ不可逆的に解決」するとされたが、韓国内での慰安婦問題への認識に変化はない。批判どころか、わずかな表現でも異論を挟めば、やり玉に挙がる。今回、韓国の司法当局が下した判決が如実にそれを物語っている。

 産経新聞の記事自体言及しているが、 慰安婦を「性奴隷同様」というのは、河野談話から外れている認識ではない。「韓国内での慰安婦問題への認識に変化はない。」と書くが、日韓合意というのは、従軍慰安婦が奴隷だったという意見を封じなければいけない、という条項を含んでいるのだろうか。むしろ、産経新聞の方が、河野談話について「蒸し返し」をおこなってるように読める。

そもそも、ピーター・シンガーの意見に賛同できない〜ふたたび障害児の排除について

当時茨城県の教育委員だった長谷川智恵子氏の発言をきっかけに障害を理由に、子どもの排除が許されるか、という問題について書いた。

この問題について、「傷がい(ママ)を持つ胎児の中絶はもちろん、出産直後に障がいがあることがわかった場合も安楽死を認めるべきだ」という意見を作家の橘玲氏が紹介していた。
障がいを持つ胎児の中絶をどう考えるか? 週刊プレイボーイ連載(223) – 橘玲 公式BLOG
記事自体は、オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーの考えをなぞっているだけで、ほとんど論評に値しないが、橘玲氏自身の意見として書かれていて、看過できない部分があった。

ナチズムの暗い過去を持つドイツでは安楽死への心理的抵抗がことのほか強く、シンガーが生命倫理のシンポジウムに参加したときには「人権団体」から激しい抗議を受けました。彼らはシンガーの安楽死論を「(ユダヤ人絶滅を計画した)ホロコーストの正当化」だと批判しましたが、実はシンガー自身がユダヤ系で、親はナチスを逃れてヨーロッパからオーストラリアに移住したのでした(シンガーの著作の多くは日本でも翻訳されており、生命倫理を論じるうえでの必読文献になっています)

ある意見を、提唱者の属性をもって否定することと同じく、提唱者の属性で擁護することは正しくないだろう。親がナチスから逃れたユダヤ系の人間なら、非人道的なことを考えたり、実行したりしないという根拠は何なのだろうか。橘玲氏の論法は、アレクシス・カレルを持ち出して、ヒトラーを礼讃したわけでないと、言い訳した渡部昇一氏のそれに似ている。*1橘玲氏は、シンガーの考えが、ナチス・ドイツ安楽死政策T4作戦を支えた考えとどう違うか、考えを述べるべきだった。

そもそも、私はピーター・シンガーの意見に賛同できない

ピーター・シンガーの考えについては、プリンストン大学のwebページにFAQが掲載されている。(非公式ながら日本語訳した方もいた。)シンガーは、障害のある赤ん坊を殺すことが不正でないことがあるのは、新生児が自分が時間を通じて存在するという感覚を持っていないからだという。シンガーが新生児全てにはてはまることを根拠として持ち出していることに注目しなければならない。それでは、当然、障害のない新生児も殺すことが認められる、という結論になるはずだ。シンガーのFAQにもその問いがたてられている。(障害のないことはnomalと表現されている)ところが、シンガーは障害のない赤ん坊(a normal baby)の場合、両親が自分たちの子供をいらないと思っていても、子どもを殺すことは不正となると言っている。条件が同じであるのに、障害のあるなしで、結論が異なるというのでは、論理が破綻している。

 さらに認知症や事故で未来についての感覚を失った人も殺すことは認められるか、という問いに、シンガーは、彼らがそうなる前に、未来についての感覚を失っても殺されたくないと考えていたなら、殺すことは認められないと答えている。そう考えているのなら、障害のある赤ん坊も成長すれば、未来についての感覚を持つようになる可能性を全く無視していることは理解できない。

戦後70年の年、及び我が子が生まれた年の最後の日に

 第2次世界大戦が終結してから、今年は70年経過したわけですが、いまだに、あるいは70年たったから「南京事件はなかった」とか「慰安婦問題は捏造」等という人が少なからずいます。こうした事態について、私も言うべきときに言うべきことを言ってこなかった、という忸怩たる思いがあります。
 私事ですが、今年、子どもが生まれました。この子どもに「1たす1は2」*1と言える社会を残すために、微力を尽くしたいと考えます。

*1:元ネタはジョージ・オーウェルの小説です。

南京事件について、あったと言う側がまずあったことを証明しろ、という主張がおかしい理由

自分が嘘をついていることを、他人に知られても平気な人間もいるのだな。 - davsの日記に同じ言葉を返します氏が以下のようにコメントした。

裁判では刑法に触れる事実が「あった」とする検察側に立証責任がある 南京事件も同じ。「ない」と主張する側には「あった」と主張する側の ポリティカルコレクトネスに付き合う必要はない。

 南京事件について、刑事裁判における無罪の推定の原則をあてはめ、まず、南京事件史実派が南京事件の存在を立証するべきだ。しかも、その立証に少しでも疑わしいところがあれば、それは南京事件がなかったという根拠になる、という主張は少なからず目にする。
 しかし、この主張はふたつの点から誤っている。ひとつは南京事件の存在、不存在は、そもそも刑事裁判で争われているわけではないこと。もうひとつは、南京事件否定派に、事件がなかったことを証明しろ、ということは、無茶な要求ではないということだ。

そもそも刑事裁判ではない。

刑事裁判は、国家と私人との間でおこなわれ、被告人に刑罰を科すべきかを問うものだ。検察側は被告側にはない捜査権もあるし、組織として力も大きく違う。国家がほしいままに私人の生命や自由を奪うことないように、検察側に立証へ高いハードルを課し、被告人は自らの無実を立証する責任を負わない。ひるがえって、南京事件史実派が南京事件否定派の生殺与奪の権を握っているわけではない。南京事件否定論が、否定されれば、否定論者が絞首刑に処せられたり、獄につながれるわけではない。南京事件否定派にハンデを与える必要は、どこにもないだろう。

南京事件がなかったことを証明しろ、ということは、無茶な要求ではない。

 前述の無罪の推定を適用すべき、という主張に似たものとして、南京事件がなかったことを証明することは「悪魔の証明」であって、不可能だ。したがって、史実派の方が、立証責任を負うのだ、という主張もある。
 それでは、史実と認められていない事件、ことがらは全て「悪魔の証明」をへて、「なかった」ことになっているのだろうか。例えば、源義経が衣川で死なず、後にチンギス・カンになったという伝説は、史実と認められていないが、それは源義経チンギス・カンが同一人物では「ない」ことが、証明された結果ではない。(チンギス・カンの前半生についての信頼できる新史料が発見されれば別だろうが)ふたりが同一人物で「ある」ということを実証できていないからである。
 もっと極端な例を出すと、20世紀のはじめのイギリスに火星人が襲来した事件があったと信じる人間はいないだろうが、それはそうした事件が「なかった」と証明されたからだろうか。もしも、火星人があやつる三本脚の戦闘機械とイギリス軍が一戦交えたのだ、と主張する人間がいたら、その主張を裏付ける証拠を要求するだろう。「なかったこと」を立証できなければ、あったことになるとは考えない。
 
 南京事件の方は、そのの存在が膨大な資料によって実証されている。被害者の中国人や第三者の外国人だけでなく、加害者の日本軍が残した資料もある。南京事件否定派は、それらの資料が事件を実証するものでないと、実証すればよいのだ。そのことに東京裁判以来、失敗しているということだ。




 

それは70年前に出た話だ。

以前の記事で、言及した笠原十九司氏の『南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書)』を読むと、南京事件否定論者の主張の多くが、東京裁判の弁護側の主張として既に出ていたことが分かる。同書から引用すると下記のようになる。

  1. 証人の証言は伝聞によるもので直接現場を目撃したものではない。
  2. 中国軍も退却に際して殺人、略奪、放火、強姦をおこなった。死体の存在、略奪の結果だけを見て、これを日本軍の行為と断定することはできない。
  3. 中国兵は便衣兵(民間服を着た兵士)、便衣隊となって南京安全区ないし南京城内に潜伏していたので、日本軍は便衣兵、便衣隊の掃討、処刑をおこなったので不法殺害でない。
  4. 中国の慈善団体による埋葬資料のなかには、南京戦の戦闘で戦死した兵士の死体が集められて埋葬されたものがふくまれており、虐殺被害者数に入れることはできない。
  5. 日本軍が南京を攻撃する直前の南京市内の住民は20万人前後であったので、城内の住民全部を殺さないと集団虐殺20万人にはならない。20万人虐殺というのは、誇大無稽の数字である。

 いずれも、反論され否定されたものにかかわらず、何度も持ち出されているわけで、南京事件否定論ニセ科学としての特徴をそなえていると言ってさしつかえない。

 2について、弁護人が証人に対し、「支那軍は都市を占領したり、また敗れて都市から逃げるときには、放火・強姦・略奪などをする習慣があることを知っていますか」と質問したとのことだが、これは完全に誘導尋問だろう。「はい」か「いいえ」で答えることができる質問である上、弁護側の主張が質問にのってしまっている。法廷ドラマなら、検察側から「異議あり」の声がかかるところだ。

市民が30万人殺されたのが南京事件?〜藤岡信勝氏のとても狭い虐殺の定義

前の記事ふたつで、藤岡信勝氏の南京事件否定論について書いたが、藤岡氏の南京事件の定義は独特のものだ。

 過去15年間の南京研究の成果を要約するのは簡単ではない。もし、その結論をひとことで表すとすれば「南京戦はあったが、『南京虐殺』はなかった」というものである。この命題は非常によく出来ていて、私が監修したパンフレットのタイトルにもなっているのだが、この命題に南京事件に関わるすべての論点を解明するカギがあるといえる。

 この命題のもとでは、南京事件に関わるどんな話題でも、「それは南京戦に属するテーマなのか、それとも南京虐殺に属するテーマなのか」を判別することが求められる。「虐殺」とは武器をもたない非戦闘員を、根拠なしに武器を帯びた兵士が殺害することである。
(中略)
中国共産党南京事件の定義ははっきりしていて、「南京陥落後の1カ月半の間に、南京城内で非戦闘員の市民30万人を不法に殺害した」というものである。これが「虐殺」に関わるテーマである。

 それでは侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館のサイトの日本語解説を見てみよう。「中国の庶民と捕虜になった軍人30万余りを殺害した。」と書いてある。中華民国(台湾)の国軍歴史文物館のサイトにも「此一大規模劫掠、姦淫、屠殺行動,計死傷中國軍民竟高達30萬人。」と記され、いずれも非戦闘員に犠牲者を限っていない。
中国共産党南京事件の定義」というが、むしろこれは、藤岡氏による南京事件を否定するための南京事件の定義だろう。この定義から外れる「南京事件」は南京事件として認めない。この定義を満足する南京事件はない。従って南京事件はない、というわけだ。

 さらに「「虐殺」とは武器をもたない非戦闘員を、根拠なしに武器を帯びた兵士が殺害することである。」と藤岡氏は定義するが、これでは捕虜を殺したり、非戦闘員を殺しても根拠があれば(しかし、根拠とは何だろう)虐殺だと、とがめられない、ということになってしまう。しかし、藤岡氏の虐殺の定義からは外れるが、虐殺と呼ばれる事件はいくつもある。

例えば、1944年12月のバルジの戦いの中、ドイツ軍がアメリカ軍の捕虜を殺した事件は「マルメディ虐殺事件」と呼称されている。これも藤岡氏にとっては虐殺ではないのだろう。
米軍の騎兵隊が、アメリカ先住民を虐殺した1890年のウンデット・ニーの虐殺では、武器を手に抵抗した先住民もいたから、藤岡氏の定義では虐殺ではない。

一方的な暴力の行使による殺害が、虐殺と言われるわけで、犠牲者の属性によって、それが正当化されるわけではない。